都心から一時間弱で味わえる静寂。鎌倉の裏路地を歩く。
みなさん、こんにちは。
ケイズハウスのなかの人です。
ケイズハウスはマンスリーマンションをご提供している不動産会社です。
いま注目の「16号線エリア」、多摩、相模原、横浜、横須賀。
便利でたのしいお部屋がいっぱい。
引っ越しの仮住まい、出張、現場派遣、通院、受験などの他、
テレワーク時代にぴったりの「わくわくマンスリー」生活のための
お役立ち「タウン情報」を不定期でお届けします。
この日、鎌倉へ行きました。鎌倉にある川喜多映画記念館で、原節子主演の古い日本映画『智恵子抄』が上映されたからです。
この作品は、高村光太郎の詩集『智恵子抄』を映画化(1957年)したもので、原節子の後見人とも言われていた義兄・熊谷久虎が監督を努めました。この映画の原節子は、日本人離れした美貌で話題になった初期作品や『晩春』『東京物語』などに代表される一連の小津(安二郎監督)作品での印象とはまた一味違っていました。
比較的晩年の作品(37歳時)で、詩人・高村光太郎の妻、千恵子の精神的に追い詰められていくさまを(大根役者という一時の風評を吹き飛ばすかのように)見事に演じていました。
映画の後、少し鎌倉の街を歩いてみました。
原節子と鎌倉は縁が深く、映画『晩春』では、鎌倉に住む小説家の「婚期を逃したひとり娘」という役柄を演じ、北鎌倉駅周辺や海沿いの景色が印象的に描かれていました。都心へと向かう横須賀線も映り、長年の沿線住民には何とも懐かしくうれしい作品です。
横浜と鎌倉は近いようでまったく違う文化です。このことを私は小さい頃からひしひしと感じていました。
父の生家が鎌倉のとなり、横浜の戸塚にある関係で、住み始めたのこそ中学生からですが、私もなにかとこの周辺には縁がありました。
初詣といえば鎌倉の鶴岡八幡宮だし、父親と同様に鎌倉の中高一貫校を受験したりもしました。昭和の中期、戸塚駅はいまのように東海道線が停車する駅ではなく、横浜・保土ヶ谷・戸塚・大船・北鎌倉と(小田原方面ではなく)「直接的に」鎌倉とつながっていました。
住んでいる住所は横浜市ではあるけれど、父親や親戚の叔父たちの口から出る言葉は、「鎌倉」ばかり、けっきょく鎌倉にある学校には通わず、横浜・本牧の海沿いの高校に通った自分としては、なぜかそのことが不思議でなりませんでした。
おとなになり、都心方面とは逆に位置する鎌倉に目を向けることがなくなりました。
心情的に鎌倉を背負っている父親と「港湾沿いの横浜」のイメージのなかでおとなになった自分との間の微妙なるズレは、これまたずいぶんとおとなになってから、突然に解消しました。
よくよく調べてみると、戸塚は昭和の初め頃まで横浜市ではなく鎌倉郡でした。神奈川区・西区・中区あたりを除いて、現在の横浜市南部の大半がずばり鎌倉だったのです。そして、その「郡役所」が戸塚にありました(昭和14年に移転)。そんなこともあり、うちの父親のような戸塚出身の戦中世代は、海沿いのちんけな「横浜村」などではなく、鎌倉という響きにおおいにプライドを持っていたのです。
そんなことを思い出しながら、鎌倉の小町通りから鎌倉街道(県道21号横浜鎌倉線)を北鎌倉駅方面へと進みました。建長寺の門前、鎌倉学園の生徒たちの「買い食い」で賑わっていた「小さな商店」は、いつのまにかおしゃれな蕎麦屋になっていました。
踏切を渡り浄智寺周辺へとやってきました。
左に入る小道を進むと突然のように、古い竹垣のいかにも鎌倉らしい風情が広がっていました。小道から少し奥に入ったところには、小津安二郎監督が母親に建てた家があります。現在は私道のため通行止めでありその様子を伺い知ることはできません。
近くには古民家を改修した陶芸の体験教室があります。休日の昼間だというのに、自分の靴音だけが響いている、閑静な鎌倉の風情がまるで身体に染み入るように漂う静かなエリアです。
原節子は横浜市保土ヶ谷区の出身です。横浜の女学校を出て映画スターの道を歩み、引退後は鎌倉の屋敷に身を隠し、伝説の女優としてその生涯を閉じました。浄妙寺周辺であると聞きます。
今日、いろいろな物語を観ました。遠出ではなく、近場観光。身近な場所だからこそ味わえる、そんな観光があります。(敬称略)