vol.10 ガイア幻想紀
遺跡というものについて、今の子どもたちはどんな風に考えているのだろうか。仮にガイア幻想紀を今の子どもたちが遊んだとして、どんな感想を抱くのだろうか。世界中に残る遺跡に対する興味は沸くのだろうか。
筆者が本作を知ったのは、スーパーマリオスタジアム番組内で紹介された新作ソフトの映像だったと思う。当時はCMやゲーム番組から得られる動画の情報は大きく、ときどき「これは絶対に欲しい」と思わされるゲームに出会うことがあった。
本作もそのうちの一本で、キャラクターのビジュアルなどは特別惹かれなかった、特にフリーダンの長髪とダークなイメージは少し苦手ですらあったのに、なぜか「このゲームが欲しい」と感じたのだった。
本作はクインテットが製作したアクションRPGで、主人公は少年少女の仲間たちと世界中を旅することになる。この旅で、主人公たち一行は全員人生に何らかの大事件が起こる。大変なストーリーだ。
本作に登場するダンジョンは、世界中の実在の遺跡をモチーフにしており、説明書に実際の遺跡の紹介がある。これが筆者の心に深く刺さった。実在のなにかとゲームがリンクすることに驚いたのかもしれない。当時はテレビ番組でも、ピラミッドをはじめとして様々な遺跡が紹介されていた。
余談であるが、特に空中都市マチュピチュは強く印象に残っている。なにせ空中都市マチュピチュはもちろん空中にはない。山にある遺跡だ。「なぜ空中都市なのか?」は幼少期の自分に疑問として残った。
ストーリーは全体に、驚き、それも喜びではない驚きの連続だった。基本的に何らかのショッキングな事件が、あまり強くない演出と共にやってくる。パーティーメンバーも、パーティーでない登場人物も様々な理由で離別が続く。
たとえば事故、または自分の意思で人の形を失う、別のキャラは実家に帰ると共に、誰かと恋仲になる。またそのキャラの立ち位置が「まさか離脱するとは」というものだったりする。あるいは自己犠牲により絶命する等、ありとあらゆる別れが物語中に起こる。
それらの演出はどれも、テキストの表示だけだ。当時のスーパーファミコンの演出であるからそのくらいのものだろうが、例えばファイナルファンタジーであればコミカルなドットの動きでキャラの感情を見せたり、スターオーシャンやテイルズオブファンタジアのように吹き出しで見せたり、といった演出はできていた。
しかし、本作はそういうものはなく、せいぜいBGMが変わるくらいの演出である。だから情緒面は全てプレーヤーが受け止めなければいけない。これは嬉しい別れだろうか、納得いく別れだろうか。それらが全て自己判断として心に刻まれるのだ。
プレーヤーであれば、結末は言うまでもなく、衝撃だと思う。子供の頃に読んだSF作品たちの壮大すぎる結末と同様に、どう受け止めればいいのかが問われるエンディングが待っている。
ゲーム中の収集要素も印象深かった。いわゆる「小さなメダル」的なアイテムで「赤い宝石」というのを探すのだが、ガイア幻想紀は基本、先に進めば以前の町などには戻ることができないシステムである。よって取りこぼせば二度と手に入れることができない。
にもかかわらず、この赤い宝石の入手条件はエグい難度のものが多数ある。かつ、赤い宝石をすべて手に入れることで得られるのは追加エピソードであり、アイテムの類ではない。ささやかとはいえストーリー部分である。遊びたくなるのが人情というものだろう。
当時はインターネットがなかった時代なので、攻略本が無ければすべての収集は不可能と思われる。当時、攻略本も手に入れたが「これに気づくのは無理だ」というものばかりだった。良しあしであるが、当時であればゲームの寿命は長くなるだろうか。
この前後にシリーズが続いたわけではないが、ガイア幻想紀をプレイした人はみな、物語展開を強く心に残している。同じくクインテットが制作した「天地創造」などにも同じことが言えるが、SFマインドに溢れた作品なのだ。ハッピーエンドだけが物語ではない。筆者にそれを教えたのは「藤子・F・不二雄SF短編」とこの「ガイア幻想紀」だった。