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インドリトリートへの道(連載)#5

 ついに『死の光に照らされて~自由に生きるための仏教の智慧』(株:薄月)が校了。あとは印刷、配本、販売に任せるばかりだ。2年間これほど手をかけた一冊はない。それだけ意味あるものになった。本当に苦労したが、多くの人の手に渡ってほしい本だ。

マザーテレサの「死を待つ人の家」


 死についてたどっていくと、1987年、マザーテレサの「死を待つ人の家」でボランティアをしたことがきっかけだった。自殺衝動が強かった僕は、何度も未遂をして長く入院し、危ない状態だった。 
 そんなときに読んだのが、マザーテレサの看取りの活動と、藤原新也氏の「メメントモリ(死を想え)」だった。どちらも死にまつわる、死を直に見つめるのがテーマだ。  
 ぼくは退院したらマザーのホームでボランティアをしようと思った。それがインドに行く第一の動機だ。その前に通っていた大学にマザーが来て、ぼくの友人が通訳した縁もある。
 そうして、まずはカルカッタ(今のコルカタ)から入り、前回Noteに書いたように最初病気で療養したが、そのあと1か月にわたって、死に行く人のお世話をする仕事に集中した。

 道端で倒れた人たちをホームに運び込み、医療、福祉的なケアを行う。半分以上は亡くなるが、ていねいに看取り、穏やかな最期を迎えられるよう誠心誠意を尽くす。回復した人たちは、仕事を紹介したりホームで働くようになる。
 入浴介助では、「キリストの体」と書かれた壁が忘れられない。キリストを洗っているのだ。だから、シスターたちは皆とても明るい。その雰囲気が、今日も行って働きたいという気にさせる。
 食事を介助したり、体を拭いたり、掃除や片付けをする。亡くなった方の弔いにも何度も出た。毎日死に接していると、生と死が分かれていないこと、人間的に扱われるのが誰にとっても重要であることがわかってくる。

写真は、クリスマスの時期に「死を待つ人の家」を訪れたマザー・テレサ。ちょうどぼくが訪れたころの写真だ。右の人はシスターアグネスだと思うけれど、めっちゃ怖かった!

むき出しの死に触れる火葬場

 1か月そこに居てから、ぼくはインドの旅に出たが、よく火葬場を見に行った。もちろん外で、水辺にある。薪を積んでその上で遺体を焼くのである。死はむき出しだ。そうして数時間ずっと見ていたこともある。  
 現場では煙も臭いも音もある。自分もまた肉体として焼かれる身だ。生と死は分かれていない。人と自分は分かれていない。すべては自然の循環に含まれる。そういうことを実感した。

ガンジスの岸辺の火葬、よく見られる風景

 旅から帰って半年後にまたマザーハウスに行った。ミサにも出た。マザーもお元気なころで、毎朝シスターたちと祈りを捧げていた。驚くほど目立たない。
 外国人のボランティアが呼ばれて祝福を受けた。ぼくは「人はパンのみにて生きるにあらず」とスペイン語で書かれたカードをいただいた。孤児院にも行き、子どもたちと遊んだこともある。


*今回死の本を翻訳出版し、またインドに行く縁に恵まれて、生と死をめぐる思索と瞑想の旅に再び出ることになる。

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