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それでも都市はやめられない

 僕は小説を読んでいるとき、ふと、都市的なものを感じるときがある。でも文芸評論家でもないので、「都市」と「都市的」の違いなんてよく分からない。ただ都市が都会とは違うような気はする。「電脳都市」とはいうが「電脳都会」とはいわないし、「地方都市」とはいうが「地方都会」とはいわない。更に「都市小説」とはいうが「都会小説」とはいわない。何だか都市が気にかかる。仕方ないからちょっと考えてみた。

1.都市と文学

 僕がよく読む作家の中で、その作品が第一線で「都市小説」と位置付けられているのは、どうやら村上春樹のようだ。松本健一氏は「主題としての『都市』(1982・1、『文藝』)の中で、1920年代アメリカの文学的旗手であったスコット・フィッツジェラルド(1896–1940)を都市小説の書き手と記した上で、

その後(1964年以後)、都市小説の出現する端緒なり兆候なりは村上春樹の『1973年のピンボール(1980)』に現れはじめている

と述べているし、中国の文学誌「日本文学」では、1986年6号で

村上春樹は都市小説の代表作家

と位置付けられている。また、直接的に都市小説という表現を用いないにしても、鈴村和成氏の「村上春樹クロニクル1983–1995(1994・9、洋泉社)」や鈴木隆之氏の「『建築』批判(1995・10、彰国社)」など、彼の作品に触れた解説には、度々「都市」というキーワードが絡んでいるようだ(ちなみに鈴木隆之氏は村上春樹について「80年代の記憶喪失の都市文学」の書き手、と記している)。どうやら、「都市」と村上春樹の作品は、切っても切り離せない関係らしい。

2.都市小説とは

 でも村上春樹の作品を読んでいない人で「都市」だけに興味を持っている人には何のことかさっぱり分からないだろうから、とりあえず、「都市小説」について大まかに考えたい。

「都市小説」は主人公が都市を舞台にしてどうこう…といったものでは決してない、と思う。都市はただ「場」であって主題ではないからだ。松本健一氏はブランチ・エ・ゲルファントの「アメリカの都市小説」からの引用で、ベン・ヘクトの「シカゴ物語」の文章に注目し(ややこしいなあ)、都市小説の原義を考えているが、要約すると、

都市小説は場を限定せず、出てくる人たちが、都市の烙印を消せないもの

としているようだ。ここで「都市の烙印」という新たな言葉が出るが、これは要するに「無名の存在」らしい。分かり易くいうと、都市そのものを「虚構空間」として、その中で自分を無名にする…、すごく易しくいうと、「都市には人がいっぱいいて自分の存在はその中に紛れているからね」ということだろう、と思う。「都市小説」はそれを身許証明(アイデンティティー)としているらしいし、なるほど、それなら鈴木隆之氏のいう「記憶喪失の都市文学」も分からないでもない。

3.1980年の作品

 ここら辺で村上春樹周辺の話をしたいのだが、彼のデビュー作「壁の歌を聴け」の続編っぽい「1973年のピンボール」が出た1980年には、実は村上龍の「コインロッカー・ベイビーズ」や田中康夫の「なんとなく、クリスタル」も出ていて、それらは同じ都市小説でありながら特徴付けが違うらしい。

 ・村上春樹の場合
  「都市」と「自由」との折り合い、又は「都市」と「人間」との調和
 ・村上龍の場合
  「都市」は「破壊」の対象、又は「孤独」「疎外」に対する否定
 ・田中康夫の場合

  「都市」は「風俗やファッションを享楽する場」

 どれが「都市小説」として正しいのかは分からないけれど、異性の好みでいうと、「性格派」が村上両氏で、「外見派」が田中氏だろう。「性格派」の中でも理系は春樹、文系は龍、ぐらいのことだろうか。というのも、「都市」と「人間」何て建築的だし、「都市」における「孤独」は文学青年にありがちだから。逆に、「都市」を純粋な「場」として用いているのは田中氏だろう。何だか分からなくなってきた。とにかく、現代作家に見る「都市小説」とは、こんな感じなのだろう。

4.ポストモダン的島田雅彦

 以上に出てない作家で、特に僕が取り上げたい作家は島田雅彦である。彼はロシア・フェチのイカれた人だ。でも最も建築に近いような気がする。というのも、彼の作品の中では「都市」という既存っぽい場ではなく、新たな「世界」「帝国」といった「都市」が形成されているからだ。「忘れられた帝国(1995・10、毎日新聞社)」では、「TM川」が重要な空間として描かれ、それは彼が川崎出身というところから考えても、テムズ川ではなく多摩川だと分かるのだが、彼の作品中では「多摩川」ではなく「TM川」なのだ(ちなみに「彼岸先生(1992・3、福武書店)」でも川が重要なものとしてあった)。それほど彼の中では「都市」が出来上がっていると思う。それは「ロココ町(1990・7、集英社)」でも明確だ。人気作家が都市を捉えて「自由」「孤独」といった80年代後、島田氏(彼も人気作家)は90年代を代表して都市を自分の中でつくりあげているのだ。だから偉い。面白い。やっぱり作ることは面白くて楽しいのだ。

5.そして、ARCHIN'ON 01

 しかし僕は文芸評論をするつもりはない。ただ「都市」が気になっているのだ。村上春樹の作品を通してみれば、結局「都市小説」は「僕のための場所」を探しているに過ぎないのかもしれないし、村上龍の場合でも「都市に負けない僕の否定」なのだから、僕、つまり「お前が頑張れ」といわれているような気がするのだ。でもずっとそんなことはできない。疲れてるからね。そんなときは、「ARCHIN'ON 01(1996・11)」の最後の方にあるアーティスト・K@YAの言葉に限る。それは「URBAN OFF」だ。ちょっと休もう、と僕は捉えた。しかも「URBAN」は東京、渋谷に並んで、福生、府中でもあると彼は明記しているのだ。東京は確かに「都市」だけど、「福生、府中」は「都市」よりも「都会」に近く、しかもそれが怪しい。でも彼に言わせると全てが「URBAN OFF」なのだ。なるほど田舎でも駅前の方は「都会」何て言われるが「都市」とはまず言われない。「都市」とは包括的なもので、その領域はそれぞれの人間が考えているかなり曖昧なものではないだろうか?

 もう、そういうことにしておこう。それでいいじゃないか。とりあえず。

 ちなみに、村上春樹の作品中で「都市」と「人間」の調和が曖昧な関係だとしたら、それは「ノルウェイの森」の「僕」と「直子」に代表されるような曖昧な関係に通じるのではないだろうか? だとしたら、彼のいう「都市」は冒頭の「切っても切り離せない」女性として存在しているのか…?

 とにかく「都市」は面白そうだ。

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