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無料公開『牛丼の戦前史』第一章「ミスター牛丼、窮地に立たされる」その1「東京にはこんなうまいものがあるのか!」
『牛丼の戦前史』の第一章「ミスター牛丼、窮地に立たされる」を無料公開いたします。
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それでは『牛丼の戦前史』の第一章「ミスター牛丼、窮地に立たされる」をお楽しみください。
1.東京にはこんなうまいものがあるのか!
ミスター牛丼、とよばれる男がいる。
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ミスター牛丼こと安部修仁は昭和24年、福岡県糟屋郡宇美町に生まれた。
幼い頃から「不思議と楽譜を見れば初見でも歌うことが」できた安部は、高校時代になるとミュージシャンになることを決意する。おりしも、ビートルズやローリング・ストーンズに若者が熱狂していた時代。同い年のミュージシャンには同郷福岡出身の武田鉄矢、同郷ではないが同じ9月14日に生まれた矢沢永吉がいる。
高校卒業後東京に上京し印刷会社に就職した安部は、やがて仕事をやめ専業のミュージシャンとしてバンドを結成する。しかし、バンドは売れずに解散。安部は糊口をしのぐため、また、資金をためてまた音楽活動を再開するために、アルバイト生活をおくるようになる。
様々なバイトの中で、ひときわ時給の良いアルバイトがあった。しかもまかないつきだという。
アルバイト初日、そのバイト先で生まれて初めて食べた牛丼の味に、安部は驚愕した。
”東京にはこんなうまいものがあるのか!“
後に詳しく述べるが、その頃の牛丼はほぼ東京限定のローカルフードであった。福岡出身の安部がその味を知らないのも当然のことだったのである。
やがて安部はミュージシャンになることをあきらめ、アルバイト先の牛丼店吉野家に就職。紆余曲折を経て社長まで上り詰め、吉野家中興の祖となり、ミスター牛丼と呼ばれるようになる。
吉野家の名を知らない人はいないであろうが、ここであらためてその歴史を説明させていただく。
吉野家は明治32年、東京日本橋にて創業した。「牛丼ひとすじ、八十年」という昔の吉野家のキャッチコピーをおぼえている人もいるかもしれない。
吉野家豊洲市場店には、明治時代、日本橋にあった吉野家の姿がレリーフとなって飾られている。日本橋川沿いにそびえる巨大な二階建て店舗。吉野家のマークを染め抜いた巨大な暖簾が、店の中央から垂れ下がっている。
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なぜ豊洲市場店にこのレリーフがあるのかというと、吉野家が魚河岸とともに歩んできたという歴史があるからだ。
吉野家は日本橋魚河岸の男たちに、早くてうまい牛丼を提供する店として生まれた。その後関東大震災により日本橋魚河岸が灰燼に帰し、築地に魚河岸が移転すると、吉野家もまた築地に移った。そして今、築地一号店に飾られていたレリーフが、魚河岸移転先の豊洲市場店に引き継がれているというわけだ。
昭和42年までは、吉野家は築地魚河岸に複数存在する小さな牛丼店の一つでしかなかった。
この小さな店と東京ローカルフードだった牛丼を、日本全国、そして海外にまで広めた吉野家二代目経営者の名を、松田瑞穂という。
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