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新刊無料公開『新しいカレーの歴史 上』 「ビートン夫人に学ぶシチュー(stew)」(その2)

新刊『新しいカレーの歴史 上』〈日本渡来以前の諸国のカレー〉発売中です。よろしくお願いいたします。

新刊では海外の最新研究動向をふまえ、嘘・間違いだらけの日本のカレー史研究を全面的に刷新します。

19世紀イギリスのカレーはstewの一種として認識されていましたが、当時のstewは現在の日本の「シチュー」や、現在のイギリスの「stew」とはその概念自体が全く異なります。

かつてのイギリスカレーを理解するためには、かつてのstewがどういうものであったかを理解する事が必要です。

『新しいカレーの歴史 上』より、19世紀イギリスのstewとは何かを説明した「ビートン夫人に学ぶシチュー(stew)」部分を公開します。


「ビートン夫人に学ぶシチュー(stew)」(その2)


 stewという名はついていないが、stew料理の本質がわかる料理を紹介しよう。「THE INVALID'S CUTLET」(病人向けカツレツ)だ(Beeton 1861:899-900)。

『BEETON'S BOOK of HOUSEHOLD MANAGEMENT』の「THE INVALID'S CUTLET」

 ティーカップ2杯の水で2時間じっくりマトンをstewする料理。病人が消化しやすいように、豚の角煮のようにホロホロと煮崩れるまでstewするわけだ。マトンの角煮塩コショウ味といったところだ。

 なぜこの料理をcutletというのか、そもそもイギリス料理のcutletとは何かについては、非常に長い説明が必要となるので、『なぜアジはフライでとんかつはカツか?』の方を参照していただきたい。

 ちなみにパン粉揚げの「MUTTON CUTLETS」もビートン夫人のレシピに存在し、『西洋料理通』に翻訳されている。

 和製英語「シチュー」、あるいは日本化した西洋料理である「シチュー」は、具沢山で水分たっぷりでとろみがある煮物のことを意味する。

 一方、イギリスのstew料理である「THE INVALID'S CUTLET」は、具は羊肉と少量の刻んだセロリしか無く、2時間も煮ているので水分はほとんど無くなり、小麦粉は入っていないのでとろみもない。

 具材を煮て柔らかくすることが、19世紀イギリスのstewの本質なのである。水分や具材の多さやとろみは関係ないのだ。

 19世紀のイギリス人は、カレーはstewの一種であると認識していた。1877年の料理書、Eneas Sweetland Dallas『KETTNER'S BOOK OF THE TABLE』より。

 “In England the vulgar theory is that, with the addition of some curry-powder, any good stew becomes a good curry.”
 “イギリスでは、おいしいシチューならなんでも、カレー粉を加えることでおいしいカレーになるという雑な論調がある”(Dallas 1877:149)

 このstewは、日本の「シチュー」とは全く意味が異なる。肉を柔らかく煮込んだ料理という意味でのstewなのだ。

 多くの読者は第一章のこの引用を読んで、具だくさん水分多めのとろみの付いた日本のシチューをイメージしただろうが、実際には「とろみのない豚の角煮」のほうが当時のstewに近いイメージなのだ。

 なぜイギリスに渡来後、カレーはstew料理の一種とされるようになったのか。

 「第五章:シャーロック・ホームズに学ぶ19世紀末のカレー」で明らかにしたように、19世紀イギリスのカレーはスプーンで食べる。とろみのないカレーに浸ったバラバラ、ベチャベチャのライスは、とろみの強い金沢カレーのように、フォークで食べることはできないからだ。

 スプーンで食べる以上、具材をナイフとフォークで切ることはできない。具材は一口大に切り、しかも歯で噛み切れるよう柔らかく煮込まなければいけない。

 なのでカレーは肉を柔らかく煮込む料理=stew料理の一種に分類されるようになったのだ。

1907年版『BOOK of HOUSEHOLD MANAGEMENT』のCurried Veal挿絵(Beeton 1907:480)

 これはビートン夫人のカレーの挿絵。日本のカレーともシチューとも全く異なるが、「イギリス版とろみのない角煮」と考えれば納得のいく姿であろう。