文学フリマ京都へ行った日
文学フリマがあるので京都へ行ってきました。今月3回目。今日は一人だったのでモーニングを。行ったことのないところへ行ってみたかったので堺町の小川珈琲店へ。
ホスピタリティの聖地みたいな場所であったよ。内装も細かいところまで手が行き届いているし、食器の類もこだわられていて、店員さんの所作も美しい。誰にでもパッとおすすめできるのはこういう店だよなあと思う。
着物の合わせがずれているとか、おしぼりの細かい位置とか、学生バイト時代はそんなの誰も気にしてないと思っていたけれども、そうじゃないんだよとこういうお店に来ると昔の自分を叱りつけたくなる。
瓦屋根に囲まれた中庭を見ていると、京都に住んでいた頃の心地にかえっていくような感じがした。
とはいえやはり緊張する。出店する時はそうでもないのはハイになって痛覚が鈍っているんだと思う。いつもは人もまばらな白川沿いにぞろぞろ列ができているのを見るだけでそわそわする。よって文フリの写真なんも撮れてない。
文フリは去年に比べてかなり人が多かった。というか望月先生のブースが未だかつて見たことのない行列だった。
見本誌をじっくり見てからブースをふらふらしフォロワーさんに震えながらご挨拶しお買い物。「久しぶりに何か作りたくなってきた。これ作るのめっちゃ大変やねんで」と見本誌コーナーで仰っている方がいて、そうそうそうだよねえと心で頷く。
挨拶したいフォロワーさんはたくさんいらっしゃったのだけど、買わないかもしれないのに挨拶するのってどうなんだろうと思い、実際にブースを訪れたのはほんの少しだけでした。出店する側の時は挨拶だけでも来てくれたら嬉しいと思っていたけれども、訪れる側としては気をつかうよなあとお客さんになって思った。でもお会いしたいから難しい。
文フリでいつも思うのは、みんな人間で、私も人間として見られているということ。あなたの、私の、尖った言葉が溶けて地面がみえる。いくら気張っても私はここに降りてくる、私はこの私でしか言葉を紡げないということに絶望してちょっと安心する。心からのことを言いたいし、散らばる言葉からはそういうものを選び取りたいといつも思う。けれどもそれができていないから緊張するんだろうな。なんだか里におりてきた鬼みたいなことを言っているな。みやこめっせをでると駅伝用ヘリコプターの大きな音がしたけれどもどこにいるか分からなかった。
そして久しぶりのカフェキューブ。
緊張が解けてどっと疲れがでていたけれども、バスに乗って善行堂へ。亀鳴屋の新刊?室生犀星の動物の詩を集めた詩集をパラパラと。ゆるさ柔さに癒される。
フリーペーパーの次の号を作っているんですと言うといくらでも持ってきて〜と山本さん。なんでもないことのように言ってくださるのがありがたかった。
お店を出た後は画材屋さんへ行こうと思っていたけれども気力が限界でやめる。とにかく川を見たくなりバスで河原町へ戻り鴨川の見えるドトールへ。隣の席で男の子たちが英語の問題を出しあっていて、その反対では男性がいびきをかいていて、誰も自分のことを気にしていないのが心地よかった。
自分の本なんて誰が買ってくれるんだろうという気持ちが最初から今までずっとある。けれども私がそうするように、試しに手に取ってみていいなと思ったら買う人はいつかどこかで現れるだろう。自分がやりたいことは何十年もかけてやることと思った。車窓を流れるひかりの一つとして、一人で言葉を書き、形にすることを続けていくだけ。疲れたけれどほっとした一日。