人は見かけによらない、というけれど
コロナ禍で8kgくらい減量した。在宅中の散歩が効いたのだろうか。その後も体重を維持できているのはよいが、身長も少し縮んで見かけが小さくなった気がする。
年末のNHKテレビで渡邉恒雄さんの特集を見た。90歳を超えて顔つきが精悍?になって、あの不遜なふてぶてしさがひとつも感じられない。そればかりか、昭和・平成時代の政治の裏を知る、当事者・証言者としての真摯な顔だった。
昨年12月、渡邉恒雄さんは98歳で亡くなった。最後まで読売新聞グループ本社主筆だった。
ナベツネさんといったほうがなじみがある。たしか2004年のこと、プロ野球近鉄バッファローズとオリックスの合併に関して球界がもめた。読売巨人軍のオーナーだったナベツネさんは1リーグ制を主張した。2リーグ制維持を求める選手会(古田敦也会長(ヤクルトスワローズ))との会談提案に「無礼な事言うな。分をわきまえなきゃいかんよ。たかが選手が」という彼のコメントが大々的に報道された。
不遜、傲慢(ごうまん)だとの印象だった。当時68歳、白髪、色白でふくよか、たるんだほほ、パイプをくゆらせ、黒塗りの社有車にふんぞり返る。こりゃあだめだ。向こう側の人間だ、話しにならんと思った。
NHKBS「独占告白渡辺恒雄~戦後政治はこうして作られた」を見た。
最初のインタビューはコロナ禍前だった。90歳を超えて歩くのは歩行器に助けられているが、座ってインタビューを受けるときは背筋を伸ばし、早口だが、理路整然と当時の状況を話す。記憶がきちんと整理されているのだろうか、メモを見ない。一般的にトシヨリは自分に都合のよい思いこみをもつものだけれど、論旨はゆがみがないように感じられた。。
「人は見た目が9割」(竹内 一郎 )という本がある。日常生活で受け取る情報の大部分が言葉以外の「見た目」によるものだという。顔つき、仕草、目つきなどがコミュニケーションに重要な役割を果たしているというものだ。
ほほが垂れ下がり、パイプをくゆらす姿とは「見た目」がちがった。わたしの中の、2004年のころのナベツネさんの顔ではなかった。失礼ながら、この顔なら、当時の「不遜な」言い方であったとしても、少しは彼の真意をくんで報道され、まわりもエスカレートしなかったのではないだろうか。
ふくぶくと太ってほほが垂れているのが悪いというのではない。痩せているほうがいいというのでもない。でも、なんとなく同じことを、そう、不遜ととられることを言ったとしても、うける側に違いがあるように思える。「人は見た目が」である。
しばらく前の自分の写真をとりだして、見た。当時のわたしの言葉はどんなふうに受けとめられたのだろうか。今さらながらの思いをしながら、洗面所で鏡を見た。ほほのあたりがちょっと...。