誰かと比べたその瞬間、あなたの価値は堕ちていく。
■他人に自分を認めさせるか、自分で自分を認めるか
昨日からずっとデスクトップPCと向き合ってる。エラーが多く、なかなかに手間どっている。無理をさせてきたな、と感じる。
考えてみると、自分の道具に対して無茶な使い方をしてきたのは、自分を大切にしてこなかったからだ。自分という優先順位を上げないと、人もモノも思い出も、何も大切にできない。
自己中心的行動と、自分を大切にする行動は、似て非なるものだ。
自己中心的行動には、その目的に「他の誰かに愛されたい」という願望がある。一見すると普通の願望に見えるが、そもそも「何をもって愛されたとするか」があいまいなので、自分でもどうされたいのかが分かっていない。ましてや、特定の誰かから求愛されたからといって、自分の気持ちが解決するわけでもない。結果としてあれもこれもと欲しがるあまり、自己中心的になるのだ。
一方で自分を大切にする行動は、その目的に「自分で自分を愛したい」という願望がある。これはわかりやすく、自分の中で答えが完結する。他の人に影響を及ぼすことがないので、周りに迷惑をかけることも少ない。
私はこれまで前者であった。というよりも、自分を愛するよりも「誰かに見下されたくない」という目的が強かったからだ。「バカにするな」「お前ごときに何がわかる」といった、強烈な恨み。それが自分の原動力だった。
後者になろうと意識し始めると、途端に言動が変わってくるのがわかる。これまで、どれだけ世界を敵に回していたか。どれだけ、自分を愛せていなかったか。
意識し始めると、過去の自分がしてきた行為が、いかに愚かしいかが見えてくる。ある意味では、社会性を失ってまで己の目的に心血を注いでいた。それでもなお、認めさせたかった。屈服させたかった。
■人間関係を都合よく解釈するということ
誰かに認めさせようとする、という行為は、相手と比べて自分のほうが上であるということを確認したいということに他ならない。
さて、比べるという行為はなんのために行われるのだろうか。別に比較そのものが悪影響を及ぼすとは限らない。事実を冷静に見つめ、物事の大小や優劣を見極めることは、自分を受け入れる上で大切なことだ。たとえば、私はなで肩なので大柄な人がやるような振る舞いはあまり似合わない。これは良い悪いではなく、多くの人が理解し得ることだ。つまり、その比較が単なる事実確認であれば問題はない。
私が問題だと考えるのは、そこに自分にとって都合の良い解釈をすることである。「◯◯だから私のほうが偉い」「△△だからあいつはダメ」といったものだ。
こうした考えが出てくるのは、自分の居場所を確立したい、あるいは、自分のポジションで安定したい、ということの現れではないかと考えている。自分の優位性を確立したと思い込むことで「自分はここにいられる」とか、あるいは「あんな風にならなくてよかった」という安心感を得たいのではないか。
そのようにして誰かとの比較の末にたどり着いた居場所やポジションは、大抵の場合において、あっさりと失うことになる。歴史を紐解くまでもなく、私達の身近にそんな実例はたくさんある。
だからこそ、失わないように必死で誰かと自分を比べ続ける人は多い。競争社会における敗者とならないように。
しかし、やがては気づいてしまう。その比べた誰かと、自分自身に変わりがないということ。誰かと比べれば比べるほど、その人を貶めれば貶めるほど、自分を傷つけることになってしまう。
■私が私を愛するということ
私は、私を貶めるような、愚かな行為をしてきた。愛されるどころか、誰からも見放される、そんな行為を。
「誰かに愛されたい」という願望は、それほどまでに危ういことだ。周りからもらう甘い言葉に振り回され、またその言葉を欲して周りを振り回す。そして誰もいなくなってしまう。
振り回されてしまい、振り回すことになった自分。結果として失ったものは大きかった。本来であれば叶った夢や、繋がることが出来た人たち、手に入ったモノが、全てこの手をすり抜けていった。二度と繰り返したくはない。
だが、だからこそ、そんな自分が愛おしくも思えてくる。
それでも前を向こうとあがき、必死になっている自分を。
ならば、そんな自分を愛してやろう。
誰かに愛されることではなく、自分が自分を愛するのだ。
愚かしくも愛おしい、世界にただ一人しかいない、最高の自分を。
私が感じたその全ては、正しいんだと肯定してやろう。
それは、自分にしかできないことだから。