夢について考える力は、あなたを「いじめ」から解放する。
■なりたい自分を想像する、は結構大変。
自己実現や願望達成のテクニックとして「なりたい自分を想像してみる」という方法がある。目標とする自分と今の自分を比べてみて、足りない部分や出来ている部分を確認する。比較検討をした上で、行動を起こして……ここから先はPDCAサイクルで検索したほうが早いだろう。
たしかにこれは有効な方法なのだが、私が書きたいことはそれ以前の話である。つまり、そもそも「なりたい自分が想像できない」という場合だ。
仕事柄様々な人の話を聞くのだが「そもそも何かになろうとも思っていない」「現状で満足している」という答えが返ってくる。
今の状態に満足することは素晴らしい。得てしてそういった方々は、大変なことも多いだろうが、それ以上に心から人生を謳歌している。今をいかに楽しむかに尽力されているし、それを維持することのほうが余程エネルギーを使う。つまり、なりたい自分なんて想像する必要もなく、今を精一杯生きているのだ。
しかし、「現状で満足」と言っている方の話をよくよく聞いてみると、実際には大なり小なり不満を抱えている方が多い。「何かになろうとは思わない」という言葉を分析してみると、本当は「何かになれる気がしない」と感じているパターンがその大半を占めている。
こうした結論に至る理由は様々だが、概ね共通しているのは次のような考え方だ。
「自己肯定感の低さゆえに自分を過小評価し、不満はあるが大きなことが出来る気もしないので、とりあえず今を乗り切れれば良い」
つまり「オオゴトにならなければ、多少我慢してやりすごせばいい」「より大きな面倒事に巻き込まれるなら、このままがいい」という思考のほうが、実情に近い。
誰しもが抱えうる問題ではあろうが、決して楽観視出来ることではない。なぜなら、こうした不満や人生の歪みは、私の経験上必ずどこかで爆発するからだ。それは自分だけでなく、周りの人も巻き込むような事態になることがほとんどである。
だから、こうした小さな不満を解決せず、対処療法的に毎日を送るということは、いわば、人生の大問題を先送りしているに過ぎない。だが、自分にそれを解決できるような気にもなれず、結局問題は大きくなるばかりだ。
また、こうした人達は得てして先延ばし癖がついている。やらなきゃいけないとわかっているのに、ついつい先延ばしにしてしまう。また、先延ばしの罪悪感から逃れるために、あれもこれもと色々なことに手を付け始めてしまう。先延ばし癖が強い人ほど、落ち着きのない行動をしがちである。そして、落ち着きがないから不安になり、また人生がうまくいかなくなる。悪循環である。
■夢や目標を具体的に持ったほうがいい最大の理由
こうした理由から私は「夢や目標を具体的に持っていると、人生における事故が起きにくくなる」という持論を持っている。かくいう私は一時期まったく具体的な目標が建てられず、じわじわと人生の蟻地獄に落ちていったことがある。これには大きな理由があるのだが、それは後で話すとして、ここではその時の経験も踏まえて「夢や目標を具体的に持つ」ことにお話していきたい。
夢や目標と言うと、目をキラキラ輝かせながら働くような意識高い人たちを思い浮かべるかも知れない。まあそうした人たちも間違っているわけではないのだが、私が知る夢や目標を叶える人たちは、もっと堅実だ。
どこまでが自分の人生で叶えられそうか、あるいは今自分がどのポジションに居るか。スタートとゴール、そしてそのルートを過不足なく見誤らず、その上で最大限の結果を手に入れようとする。これが「夢や目標を具体的に持つ」ということである。
何も社長やフリーランスに限らず、活躍している会社員や学生はみなこれをうまく頭に入れながら行動を起こしている。最初に例としてあげたPDCAサイクルもそうだが、検証と実行を繰り返しながら実績を作り上げていくので、ブレることがない。また、やるべきことをきちんとこなしているので、邪魔も入りにくい。あるいは、邪魔者を排除する力もついてくる。
夢を持つことと夢見がちになることは全く逆ベクトルであり、この辺りを混同して「みんな大きな夢を持とう」とか言い始めると奈落に落ちていく。
かといって、今の自分にこだわるあまり「これ以上先は望めない」と絶望することもまた危うい。実際にはたくさんやれることがあって、その結果多くの人が喜ぶようなことが待っていたとしても「自分がそんなことをしても誰も喜ばない」「そんな力は持っていない」と見誤り、未来を断とうとしてしまう。
アッパーでもダウナーでも、見誤ればそこには自分や周りを巻き込んだ不幸がやってくるのだ。それはまるで躁鬱病のようなもので、どちらに転んでも現実がない。ダウナー状態を「現実的」と表することがあるが、これは大きな間違いである。必要以上の下方修正は、害悪にしかなりえない。
客観的に自分を見るということは難しいが、それでも自分の主観の中で「ここが軸だな」と思えるポイントを、常に意識しておくといいだろう。ニュートラルがわかれば、アクセルとブレーキのタイミングは間違えにくいはずだ。
■あなたの人生に事故を起こす災厄と、私の人生に起きた災厄の話
先程もお伝えしたとおり、私は一時期まったく目標や夢を具体的に考えられない状態にあった。今も後遺症はあるが、こうした記事を書きつつなんとか持ち直している。有り体に言えば鬱状態だったのだが、理由はそれだけではない。
はっきり言えば、私は「いじめ」にあっていたのである。
ある一人の人間から、真綿で首を絞められるような「いじめ」を、長年にわたって行われていたのだ。
周りからはそう見えなかっただろうし、私自身も自覚できなかった。幸いにして、私は良き友人・知人に恵まれた。結果として様々な相談を持ちかけることができた。その中で、私が明らかに異常な行動を取っていることに疑問を抱いた人が、丁寧なヒアリングを続けてくれた結果、ついに導き出された結論がこれである。
念の為に書いておくと、これはよくある「仲が悪い」とか「ケンカした」とかそういう話ではない。むしろそれなら私としっかり向き合ってくれた結果であり、歓迎されるべきことだ。
そうではなく、一見普通に相対しているようで、私の話を理解しようとせず、無視し、見下し、からかい、嘲笑ったという、徹底した侮蔑行為のことを指し示している。あまりにも当たり前にそんな行動を取られていたため、自分が辛い思いをしていることに気づくことすら出来なかった。
これは何も私に限った特殊なことではなく、形や規模を変えてあなたの身にも起こりうる、いや既に起こっているかも知れないことである。
私はこの「いじめ」により、自己肯定感が著しく下がり、正常な思考が行えなくなり、感情のコントロールができず、肉体的・精神的・経済的・社会的にと、ありとあらゆるダメージを負うことになった。
おそらく「いじめ」というより「いやがらせ」に近いだろうが、私はここで「いじめ」という言葉を使う。なぜならこれは、その人物がけしかけたことで、その周りにいる友人たちも「いじめ」に加担していたからである。
その友人たちは加害者であると同時に、その人物に巻き込まれた被害者でもある。彼らを恨む気持ちがないと言っては嘘になるが、これは本来彼らに向けたいものではない。つまり、発端となったその人物に対する恨みである。
もしかしたらあなたの身近にも、そんな人がいるかもしれない。友人知人に限らない、家族やパートナーがあなたを「いじめ」ているかもしれない。あるいは、過去の「いじめ」が今にも影響を及ぼしていることもありうる。
■「いじめ」は「無敵の人」を作り出す
「そんな酷いことされたかな」という感想は、あなたが現状に慣れきってしまっている可能性が高いワードだ。DV被害者や毒親サバイバーが、悪辣な現状を耐えるために「まあこれくらいなら仕方ない」と思ってしまいがちだということはよく知られている。
これについては、筋トレ社長として知られるTestosteron氏のツイートが参考になる。
「自分は幸せでなければいけない」と思い込みすぎることも怖いが、今の日本で一番多いのはむしろ「不幸慣れ」している人だろう。少なくとも、不快感を覚えるような出来事が起きたら、それは異常なことだと思っていい。
しかし、人間は脳構造上「慣れた状態でいたい」と思う生き物である。これを『コンフォートゾーン(快適な空間)』というが、自分が理解できるいつもの状態から出てしまうと、たとえそれが自分にとって良いものでも、不安に感じてしまうようにできている。
しかし、いくら「不幸慣れ」していると言っても、当然そんな不快な状態をすんなり受け入れられ続けるほど人間は強くない。どこかで帳尻を合わせるため、現状を受け止めるための歪みが生じてくる。
すなわち、それが「認知の歪み」である。
今の辛い現状を断ち切るには、なんらかの行動を取らなくてはいけない。しかし「不幸慣れ」している今のほうが居心地は良い。とはいえ、辛い現状を受け入れるには、あまりにも状況が酷すぎる。
このジレンマを解消するために、自分の認知を歪めてしまうのである。
その最たる例が、自己肯定感の低下である。つまり「こんな酷い目に合うのは、自分が悪いからだ」「自分にはどうしようも出来ないんだ」と思い込むことによって、現状を解決できない理由を作ってしまう。
こうすることで、どれだけ酷い「いじめ」にあっていても受け入れられてしまう。断ち切るための決意は先延ばしされ、ズルズルと脳は硬直していってしまう。
それでいて、生存本能ゆえに「いじめ」から目をそらすことは出来ないから、復讐心や猜疑心と言ったネガティブな感情はゆっくりと育つ。しかし、先延ばしをしているがゆえに、直接「いじめ」の対象者にその感情が向かうことはない。それどころが、下手をすると「いじめ」の張本人をかばうようなことを考え始めてしまう。
ではそのネガティブな感情はどこに行くかと言うと、自分を含めたそれ以外の人間に向かう。よく町中や電車の中で叫んでいる人がいると思うが、私はあれを「いじめ」られた人の極地と考えている。何も考えられなくなり、行き場のない怒りだけが溜まってしまい、それが世の中に吐き出されている状態だ。
その終着点が、いわゆる「無敵の人」である。
■考えることは最大の武器であり防具である。
以上のことから、私はこのようなことを提示する。
夢や目標を具体的に持てなくなった人は、最終的に「無敵の人」になる。
世の中0か1でしかないわけではなく、もっとグラデーションではある。しかし、いやだからこそ、あなた自身が、あなたの隣にいる人が「無敵の人」にならない可能性など無いのだ。
あなたは、あなたを、あなたの隣にいる人を「無敵の人」にしていいのだろうか。
そんなわけがない。
だから、もう「いじめ」から解放されよう。
そのためには、先延ばし癖と向き合い、認知の歪みを取り除き、自分を否定する思考から抜け出すことが必要だ。これは相当な「考える力」が必要になる。だが、ここでしっかり考えることで、「いじめ」をする人たちから遠ざかることが出来るのだ。
ただ、勘違いしていただきたくないのは「だから夢や目標を持て!」という押しつけがしたいわけではない。それはむしろしんどくなるばかりだ。
考え方はその逆で「夢や目標について考えられなくなってきた、もしかして……?」という指標くらいに思ってほしい。趣味が楽しくなくなったら鬱の可能性、という話と同じである。
あなたは「いじめ」られていい存在ではないし、誰一人としてそんな存在はいない。あなたが辛いと感じることは、あなたが苦しいと感じることは、あなたが嫌だと感じることは、何一つ否定してはいけない。
自分の感情や認知、過去・現在・未来について考え整理し、そして受け入れてあげることで、あなたは随分とあなたらしく生きられるはずである。
そうなれば、夢や目標を具体的に持つことなんて、きっと容易いに違いない。その時、あなたの考える力は、目標に向かうための最大の武器になり、あなた自身の心を守る最大の防具になるだろう。