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魔女のパン

O. Henry は、本名 William Sydney Porter (1862 –1910) で、アメリカの短編小説家として世界的に有名です。たくさんの魅力的な作品を残しておられますが、そのなかに "Witches' Loaves" (魔女のパン)があります。

小さなベーカリーを営む Miss Marthaのお客の一人はBlumbergerというドイツなまりの英語を話す地味な感じの男で、常に2つで5セントの古いパンを買います。Blumbergerは建築設計の技師で、パンは食べるために買っているのではなく、製図の最後の段階でインクを入れた後、鉛筆の下書きを消す消しゴム代わりに使っています。そんなことを知る由もない Miss Marthaは、彼が貧しい天才芸術家で、味のない古いパンをかじって暮らしているのだろうと想像をたくましくしています。ある日、Miss Marthaは、気を利かしたつもりでパンのなかにバターをいれて渡します。その結果、3か月がかりの大事な製図はバターで台無しになってしまいました。Blumbergerは怒ってやってきて、"Dummkopf!" (バカ!)、"Tausendonfer!"(魔女!)、"meddingsome old cat!"(おせっかいのおいぼれ猫め!)など、ドイツ語なども混じった汚い言葉を残して去ってゆきました。この話を最初読んだ時、どうして Witches が入っているのか、とても不思議だったのですが、つまりは Blumbergerが叫んだ Tausendonfer からきているのでしょう。短いですので、以下のオーディオ・ブックはいかがでしょうか。

https://www.youtube.com/watch?v=FFXJkbGVfj4

この作品の読者は Miss Martha を愚かな女の人だと、他人事のように笑ってはいけません。Miss Martha に限らず、人はしばしば、自分の見たいように見、自分勝手に都合よく誤解し、さらに妄想をたくましくすることがあります。むしろ、社会生活の結構な部分は、そういう美しい誤解で成り立っているところがあります。今回のケースは、あまりにも単純で、かつ Miss Martha の空想が行き過ぎで、大失敗になってしまいました。ビジネスの基本は、顧客のペイン(痛み)を正確かつ深く理解することであり、自分が簡単に提供できるものを都合よく押し付けるだけで成果を生むことはありません。ですが、現実には、Miss Marthaほどではなくても、そういったスタイルで仕事をしている人はたくさん見かけます。また、今回、思いもよらない形で被害者になってしまった Blumberger も、善意の Miss Martha に対して汚い言葉を浴びせたりするのはまったく感心しません。次から他のベーカリーに行くだけでよいでしょう。

ところで、この作品のほぼ終わりに inking という言葉がでてきます。

He finished inking the lines yesterday. You know, a draftsman always makes his drawing in pencil first. When it's done he rubs out the pencil lines with handfuls of stale bread crumbs.

これって、いまでもやるのでしょうか。私は大学で教養学部の1年生のとき、図学をとっていましたので、当時は、まさにカラスグチを使っていました。ちょうど過渡期で、その後、ロットリングとかでやるようになりました。いまはもう コンピュータの画面上での設計・編集で、レーザープリンターで印刷するのでしょう。inking という概念がほぼ消滅し、もっと別の側面にデザイン上の関心が移っているでしょうか。私は iPad Pro 上で Apple Pencil をあまりうまく使えずにいるので、えらそうなことは言えませんが、多くのデザイナーは、手書きの成果さえ、電子化された形で扱っているでしょう。下書きの図も、精密に直した図も同じ画面のなかでレイヤーとして、重ねたりも、削除したりもできますね。

もし、今の時代ならば、inking も鉛筆書きの消去もないので、Blumbergerは、2つで5セントの古いパンを買う理由はありません。だから、Miss Marthaのベーカリーに来ることもないかもしれませんが、もし来たとしても、今度は、1つ5セントの焼き立てパンのほうを買うのじゃないかな。すると全く普通のお客さんなので、Miss Marthaが関心をもつことも、妙な親切心を発揮してバターをいれてくれたりすることもなさそうです。それでも、もし何か、この2人に接点が生まれて物語になったとすれば、きっとタイトルが違うでしょう。3か月もかからないかもしれないけれど、Blumbergerが市役所の新庁舎の設計コンテストに出す、カラフルな完成予想図を Miss Martha のお店に飾ってもらうとか? 

テキストをご覧になりたい方は、こちらをどうぞ。

https://americanliterature.com/author/o-henry/short-story/witches-loaves

日本語訳は、青空文庫にあります。

http://yuji.cosmoshouse.com/works/loaves/loaves.htm

※ この記事は、まったく存じ上げない不特定多数の方々にお伝えすることを意図していません。そのため、少し敷居を高くし、将来は有料とさせて頂くことを検討しています。まだ、note は始めたばかりなので、当面は、何も設定いたしておりません。

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現代は科学が進歩した時代だとよく言われますが、実のところ知識を獲得するほど新たな謎が深まり、広大な未知の世界が広がります。私たちの知識はほんの一部であり、ほとんどわかっていなません。未知を探索することが科学者の任務ではないでしょうか。その活動は、必ずしも簡単なものではなく、後世からみれば群盲評象と映ることでしょう。このマガジンには2019年12月29日から2021年7月31日までの合計582本のエッセイを収録します。科学技術の基礎研究と大学院教育に携わった経験をもとに語っています。

本マガジンは、2019年12月29日から2021年7月31日までのおよそ580日分、元国立機関の研究者、元国立大学大学院教授の桜井健次が毎…

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