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敬天愛人

鹿児島市吉野町字磯にある磯庭園は、1658年(万治元年)に島津家19代光久によって造園された別邸です。敷地内の庭や建物のすばらしさはもちろんのこと、錦江湾と雄大な桜島が目前に広がり、それぞれを池と築山に見立て、庭園風景にとりこんだ技巧にも感心します。昨夜、ひょんなことで、磯庭園の素晴らしい写真を拝見し、とても懐かしくなりました。私が鹿児島に住んでいた頃は、誰もが磯庭園と呼んでいたのですが、気がつくと、世界遺産、仙巌園になっていました。2015年に世界遺産になったということです。私は 昨年、2019年、20年超ぶりに鹿児島入りした際に訪問しました。雨の日でした。

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その鹿児島では、西郷隆盛(西郷どん、南洲翁)がなんと言っても1番人気です。島津の殿様よりも、どの幕末の英雄よりも、です。西南戦争で賊軍になって敗れて亡くなってもなお、明治天皇はじめ、多くの人々から愛され、大日本帝国憲法が発布された1889年(明治22年)、名誉回復を果たしました。ここまで多くの人々の支持を得るに至ったのは、やはり、それだけのしっかりした信念と覚悟、それらを支える哲学的な理念と深い学識、人を惹きつけてやまない人間的魅力があったためと考えられます。人気者と言えば、弁舌滑らかで、耳ざわりのよいことを軽やかに語る大衆迎合的なスタイルを頭に描きがちですが、西郷どんは、まったくそうではない、その正反対の人物でした。若い頃の西郷どんのそんな素質を早くに見抜いて抜擢した島津斉彬公の慧眼は素晴らしいとしか言いようがありませんが、明治維新以後の活動を見れば、誰の目にもそれは明らかでした。

西郷どんの遺訓集である「西郷南洲翁遺訓」は、インターネットの青空文庫で無料で閲覧できます。この書は41条、追加の2条、問答と補遺からなりたっています。この遺訓集は、旧庄内藩士らが鹿児島県まで西郷どんを訪ねて来たときに教わった言葉を主に記録したものということです。なぜ地理的に遠い庄内藩が? と誰もが思うでしょう。幕末から明治の時代へ向かう混乱期に起きた江戸市中での薩摩藩邸焼き討ち事件や戊辰戦争の仕置きについて、西郷どんが寛大な対応をしたことに端を発しています。

西郷南洲遺訓 https://www.aozora.gr.jp/cards/001320/files/47885_31033.html

今日の記事のタイトル、「敬天愛人」の4文字は、この「西郷南洲翁遺訓」の21条冒頭に登場するのですが、その意味する主要なポイントは、そのあとの24条に書かれています。

道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふゆゑ、我を愛する心を以て人を愛する也。

このままでも現代の言葉として通用するように思いますし、おそらくここまで有名な出版物、著名な方が解説も書かれているでしょうが、僭越ながら、私的な意訳をするとすれば、こんな感じでしょうか。

道とは人の主観を超えた宇宙と万物の自然法則に従っており、人もその一部として生きているのであるから、そのことをよく認識し畏敬の念を持って接することを第一としたい。その大きな枠組みに照らしてみれば、他人も自分も対等であり、等しく大切な存在なのであるから、自分を愛する心をもって人を愛することとしよう。

先に触れた21条冒頭の一文とは、次の文です。

道は天地自然の道なるゆえ、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己を以て終始せよ。

これは学問の心得を一言で述べていますが、やはり「天地自然の道」が出てきています。ほかの場所にも1条、9条、追加2条などに類似した文言があります。ここからも、西郷どんが敬天をいかに重視していたか、うかがい知ることができます。

せっかく西郷南洲翁遺訓を開いたところなので、ついでに、非常に有名な文言も見ておきたいです。それは5条です。不為児孫買美田(「児孫のために美田を買わず」)は、今日でもよく言われる格言になっています。ですが、前後関係もよく見ておきましょう。

或る時、『幾歴辛酸志始堅。丈夫玉砕愧甎全、一家遺事人知否。不為児孫買美田。』、との七絶を示されて、若し此の言に違ひなば、西郷は言行反したりとて、見限られよと申されける。

現代風に書くとすれば、

ある時『辛酸をなめるような経験を何度も味わったのちに、はじめて志がしっかりと定まるものだ。そのような志を高く持ち、いざとなれば命をも投げ出す気概を持ちたい。その反対に志低く、瓦を敷き詰めた道を歩むような安全な人生を永らえるのは恥である。自分には家訓というものがあるのだが、おそらく人はそれを知るまい。子孫の為に良い田を買わない、財産などは残さない。』という内容の七言絶句の漢詩を示され、もしこの言葉に違うような事があったら、西郷は言行不一致だと見限っても良いと言われた。

5条全体を見ると、西郷どんがぜひとも伝えたいと強く願ったことは、同じ七言絶句の前半部分、幾歴辛酸志始堅 丈夫玉砕愧甎全 の方じゃないかとも思えるのですが、世間的には、1番最後の不為児孫買美田がよく伝わったようです。私の勝手な想像ですが、おそらく、財産相続のトラブルは大昔から、身分の上下、財産の多寡にかかわりなく、あちこちで頻発していたので、誰にとっても身近な問題だったのではないでしょうか。西郷どんのこの一言が、それは、Good idea! と思う節があって、共感を得たのかもしれません。

実際、もっと昔、14世紀に吉田兼好が書いた徒然草にもこんな記載があります。第百四十段です。

https://tsurezuregusa.com/140dan/

 身死して財残る事は、智者のせざる処なり。よからぬ物蓄へ置きたるもつたなく、よき物は、心を止めけんとはかなし。こちたく多かる、まして口惜し。「我こそ得め」など言ふ者どもありて、跡に争ひたる、様あし。後のちは誰にと志す物あらば、生らんうちにぞ譲るべき。
 朝夕なくて叶はざらん物こそあらめ、その外は、何も持たでぞあらまほしき。

このインターネットのページには、現代語訳も出ています。最後の一文の「何も持たでぞあらまほしき」、現代風に言えば、ミニマリストの薦めという感じです。兼好法師も 700年近く前に、こんまりさんみたいなことを言っていたというわけです。

 子孫に美田を残すのは、まともな人間のすることではない。下らぬ物を貯め込むのは恥であり、高価な物に心を奪われるのは情けない。何より遺品が多いのは、傍迷惑である。「私が貰っておきましょう」などと名乗り出る者が現れ、醜い骨肉の争いが勃発するだけだ。死後に誰かに譲ろうと思っている物があるならば、生きているうちにくれてやれば良い。
 生活必需品を持つだけで、後は何も持たない方が良いのである。

実は、同じようなテーマは、もっともっと古い、中国の前漢時代、疏廣・疏受の勇退の故事(上疏乞骸骨)としても知られていました(骸骨はレントゲン写真で透視して見える骨のことではなく、辞職願を出す意味)。例によって、インターネットの中国古典の原文が見られるページを見てみましょう。漢書の雋疏于薛平彭傳、10章と11章です。10章が勇退の話で、11章が財産相続の話です。10章は、老子道徳経に出てきた知足不辱,知止不殆で始まっています。

中國哲學書電子化計劃
先秦兩漢 -> 史書 -> 漢書 -> 傳 -> 雋疏于薛平彭傳
《雋疏于薛平彭傳》
https://ctext.org/han-shu/jun-shu-yu-xue-ping-peng-zhuan/zh

知足不辱,知止不殆』,『功遂身退,天之道』也。今仕宦至二千石,宦成名立,如此不去,懼有後悔,豈如父子相隨出關,歸老故鄉,以壽命終,不亦善乎?」受叩頭曰:「從大人議。」即日父子俱移病。滿三月賜告,廣遂稱篤,上疏乞骸骨。上以其年篤老,皆許之,加賜黃金二十斤,皇太子贈以五十斤。公卿大夫故人邑子設祖道,供張東都門外,送者車數百兩,辭決而去。及道路觀者皆曰:「賢哉二大夫!」或歎息為之下泣。

以上が10章です。「引き際が肝心」の実話ですが、現代を見ても、国内外を問わず、しがみつく人のほうが多いです。当時もそうだったからこそ、稀有な例が教訓として取りあげられたのでしょう。

次が11章です。ゴシックにしたところをご覧ください。退職して郷里に帰った疏廣が、皇帝からいただいた金品を惜しげもなく使って、知人友人をもてなしていたので、まわりから子孫に残す財産のことを心配され、応答する場面になります。

廣既歸鄉里,日令家共具設酒食,請族人故舊賓客,與相娛樂。數問其家金餘尚有幾所,趣賣以共具。居歲餘,廣子孫竊謂其昆弟老人廣所愛信者曰:「子孫幾及君時頗立產業基阯,今日飲食廢且盡。宜從丈人所,勸說君買田宅。」老人即以閒暇時為廣言此計,廣曰:「吾豈老誖不念子孫哉?顧自有舊田廬,令子孫勤力其中,足以共衣食,與凡人齊。今復增益之以為贏餘,但教子孫怠墯耳。賢而多財,則損其志;愚而多財,則益其過。且夫富者,眾人之怨也;吾既亡以教化子孫,不欲益其過而生怨。又此金者,聖主所以惠養老臣也,故樂與鄉黨宗族共饗其賜,以盡吾餘日,不亦可乎!」於是族人說服。皆以壽終。

賢而多財,則損其志;愚而多財,則益其過。且夫富者,眾人之怨也 は、漢字の素晴らしいところで、現代日本人にさえ、意味明瞭ですね。以下は私的意訳です。

賢い人物であってもなまじっか財産があるがためにせっかくの志をくじく心配があります。愚かな人物が財産を持っていると無駄に失敗して大損害になるでしょう。そのうえ財産があると、人の恨みや嫉みを招く原因になるのじゃないかな。(自分の子孫には、そんなやっかいなことになってもらいたくないよ)

https://www.youtube.com/watch?v=agNlwsqz4As


たぶんですが、西郷どんは、以上の国内外の故事と、その出典文献、それに関連しているあらゆる古典(特に中国古典)に精通していたのではないかと思います。なぜそう思うか。西郷南洲遺訓も含め、その書き残したものから、漢詩の達人ぶりは相当なものとわかります。言葉の端々に出てくる単語の背景をたどると、今ならばインターネットで検索できるような古典のなかに何度も登場する字句と、その思想に、西郷どんがすでに到達していたのだなと感じられます。敬天愛人も、不為児孫買美田も、西郷どんが作られた新語ではありません。ほかの人が良く知らなくても、深く学んで自らのものにし、そこに困難も多かった苦難や危機を乗り越えた経験が重なって、影響力の大きい西郷どんならではの言葉になって、いまも残っているように思えます。

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現代は科学が進歩した時代だとよく言われますが、実のところ知識を獲得するほど新たな謎が深まり、広大な未知の世界が広がります。私たちの知識はほんの一部であり、ほとんどわかっていなません。未知を探索することが科学者の任務ではないでしょうか。その活動は、必ずしも簡単なものではなく、後世からみれば群盲評象と映ることでしょう。このマガジンには2019年12月29日から2021年7月31日までの合計582本のエッセイを収録します。科学技術の基礎研究と大学院教育に携わった経験をもとに語っています。

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