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<心からのありがとうをあなたへ>






8年前直腸癌になり 人工肛門をつけて しょうがい者になりました が完治してしょうがい者手帳を返納 内外で仕事ができるようになった
Kazuo Shojiです。



3年前の電子書籍初稿原稿


 人生において、出会いは本当に大切だ。

 たった1つの出会いがきっかけとなり、人生が大きく変化することは多々ある。
 そして、それまでは見えていなかった世界が見えてきたりするのだ。

 たとえば私の場合、直腸ガンを患ったとき、人生を一変させる出会いがあった。
 それまで見ていた世界が、ガラッと変わったのだ。

 ここで少しだけ、私自身の話をさせてほしい。

 社会生活を送るなかで、私はあらゆる問題を自分ごととして抱え込んできた。家人とも話し合う機会は少なく、生活優先で日々を過ごしてきたように思う。

 私は仕事が終わると、きまって行きつけの居酒屋でヘロヘロになるまで酒を飲み、飲んだくれて帰る生活を繰り返していた。

 そんな私に対して、妻は何か思うところがあったと思う。
 それでも私は、毎晩のように酒をたしなんだ。

酒に逃げていた。

仕事、日常生活のもろもろのわずらわしさ、面倒なことから距離を置いていた。

 ガンは、急に患う病ではない。
 何十年もかかってガン化していくもの。

 おそらく私の場合、数十年も不摂生を繰り返し、ストレスを直視しないで、酒におぼれていたことが直腸ガンになった原因だと思う。


救急搬送されてガンが二個発見され、リンパ節に転移していた。
 敗血症で急性腹膜炎を発症している。
医師も家人も、その時私がガンであることは言わなかった。

 緊急手術をして入院し1か月くらい経ったころ。。

 障がい者の申請手続きが必要だと言われた。
 なぜなら、人工肛門をつけたからだという。

 そのときになって、やっと自分がガンであり、障がい者になったのだとわかった。
 現実を目の前に突きつけられ、認めざるを得なくなった。

 これから、どのように治療を進めていけばよいのか。ちと
 心のなかでずっと葛藤がつづいていた。抗がん剤に対して恐怖や不安があったからだ。
 刻一刻と時が過ぎていくなか、私は呆然とベッドに寝そべりながら、天井を眺めることしかできなかった。


「ガンになれば死んでしまう」
 家族は、そう考えていたようだった。ごく当然の認識であったと思う。

 そのためか入院しているあいだ、妻は毎日のように顔を見せに来てくれた。

 私は元気だったため、
「そんなに、毎日こなくてもいいよ」
 と言ったものの、それでも毎日会いに来てくれたのだ。

 そんな矢先のできごとだったと思う。 
 たまたま新聞の広告を見ていたとき、ある本が載っていた。
 それは、「看取り先生の遺言」〈文藝春秋)

著者の奥野修司氏が岡部健医師をインタビューした記事をもとに構成されている。

自身も胃がんで亡くなられた岡部医師の遺言としてむさぼるように読んだ。

  そこには、がん治療のすべてが書かれてあった。

 残念ながら、岡部医師はすでに亡くなられていた。

しかし、
その意思を継いだ病院はあるという。
 私は居てもたってもいられず、岡部医院のA先生に手紙を書いた。

「いま治療を受けている病院の抗がん剤治療は、体が受け付けません」
どうかセカンドオピニオン、信頼できる博識ある医師を紹介してもらえないか」
 確か、そのようなことを書いたと思う。


 手紙を書いたことには理由がある。

 当時、私は主治医と抗ガン剤に対する認識がかけ離れていると感じていた。。
 執刀医と主治医が違うことにも不安であった。 

 最初に、私がガンであることを、主治医は一言もいわなかった。
 ことも、関係が希薄になった原因のように思う。

 そして、抗がん剤が私の体には合わなかった。
 抗がん剤を打ち始めるや途端、、、、、、、。


抗がん剤が体内に流れ血管が悲鳴を上げていく。
今まで感じたことのない感覚だ。

自分の体が細胞が破壊されていく。
「これは、もうだめだ」
 そう思い、すぐに抗がん剤治療を止めてもらうことにした。

「やめてくれ~~」と

語気強めに言った途端。看護師が飛んで来て、やめることを確認した。
ほどなくして医師がやってきて、彼にやめてくださいと面と向かって言い放った。




 そして、セカンドオピニオンを頼むことに決めたのだ。



 手紙を書いたのは、そんな矢先のできごとだった。

 返事は2週間ほどして、A先生から返ってきた。 

「○○病院にB医師がいます。抗ガン剤治療の専門家で一番勉強している医師です。」
 そこには、セカンドオピニオンの在り方、医療情報が加減なく書かれてあった。

 私はのちに、B医師の診察を受け、錠剤で抗がん剤治療を受けることになった。
 治療法が私の体に合っていたようで、生き還ることができたのだ。


 すべては小さなきっかけに過ぎなかった。
 しかし、そこから大切な出会いにつながり、私の人生はガラッと変わったといえる。

 何がきっかけで、どのような人と出会うかは誰にもわからない。
 その出会いから人生がどのように変化していくかなど、より一層わからないものだ。
 だからこそ、出会いの一つひとつを大切にしていきたいと思う。


 もし、あなたがいま、何らかの出会いを求め悩んでいるのなら、情報を集めて、注意深く周りを見渡し、本を読み、探究することをおすすめする。

 何気ない日常のなかに、大切な出会いが潜んでいたりするからだ。

 私の場合、始まりは新聞広告だった。
 あなたのきっかけは、一体どのようなことだろうか。

 この機会に、参究してみてほしい。



後日。


救急車で運ばれた病院を退院する日の
「わたしの声」

主治医先生、ICUのスタッフの皆様、ナースステーションのスタッフの皆様におかれましては、緊急入院以来今日まで大変なお力添えをいただき誠にありがとうございました。わたしは生きかえりました。死体験したわたしはガンという細胞に出くわし、癌と仲良しになろうと思ったようです。手術前と術後の自己は精神的、肉体的にも違うみたい?第2の人生を力強くふみ出せそうです。
この入院中ほど人生を考え抜いたことはありません。特に看護師さんの助言には勇気を得ました。わたしのナイチンゲールでしたね。人は一人では生きていけない。家族の大切さ、たくさんの人々に支えられているんだなあ、活かされているんだなあと感じました。


今日は
サンキュウ
ありがとうを届ける日
3月9日

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