禅って、私全然知識なくて…
って言う人がいて、
へー
とまた考えるきっかけをもらう。
すごいな。
相変わらず、
その発言の意味が全くわからない。
やから、自分でまた考えてみる。
知識ってなに?
思えば、アート。
鑑賞教育の記事の時にも書きました。
人は鑑賞したときに
すぐに、作者名とか時代とか絵の説明とか
なんか、よくわからない事を話しだす。
その知識を聞いて
ある者は、すごい!と賞賛して終わり
ある者は、自分の知識のなさにショックをうけ
ある者は、その知識の前に口を閉じる
で、これはいったいなに??
その流れからは何が創造されて
なんの価値がうまれるの?
これに関しては、
昭和ー平成の日本教育の失敗やなー。
知識型の教育で、
考えさせるって工程をすっ飛ばしてきた弊害。
歴史の語呂合わせなんてその極み。
で、覚えているか? いないか?
が判断基準にすらなってる
恐ろしいと感じますね。
考える楽しさは、どこにいったのやら。
その点で言えば
北欧などで盛んである鑑賞教育ってのを受けれる子供は、恵まれているかも。
絵画でも、
見たときに、知識からいくのではなく
あなたは、何を意識して見てますか?
あなたは、どのように感じましたか?
なぜ、そのように感じたと考えますか?
といった感じ。
うん。いいねー。
考えるって喜びが盛り込まれてる。
正解なんてないのにね。
知識がないと恥ずかしいとかっていう価値観があるのは
なんとも情けない事です。
やからこそ、
考えるって工程はいつも飛ばされるのですよ。
記憶だけにはもう価値はない。
グーグル先生には人間は勝てません。
ただ知識がほしいっていう表面的な事なら
本買って読んだらいい。
そんな事より、
あなたはどう考える?
ってのが1番大切なことなのに。
守破離ってのも
結局は覚えたもんを破壊させて新しく構築するあなたらしさを説いているし
禅も、答えはないという事と
あなたの自問自答を説いているので
そもそも、人に知識を聞くのもおかしい。
禅ってなんですか?と聞かれて
それはねーって答えるのもおかしい
一人一人
違う人間。
どう考えて、どのように行動していくか
それすらも人に聞いてしまうの?
少しばかり、無自覚に
人に依存しすぎなのではないですかね。
ま、戦後日本のプロパガンダ教育の弊害は
目には見えないが、間違いなく
今日も
人から考える喜びを奪ってはいるよなー
っていう今。この瞬間でした
ちゃんちゃーん┌|∵|
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