見出し画像

ネオンシャワー幻想

救世主なんて、どこにもいない。

私は潰れかけたソフトケースの箱からタバコを一本取り出した。何処かのホテルからもらってきたライターで火をつける。明日の時間割は何だっけ、確か何かの行事の準備があったようなだけどもういいか、行かなくても。

隣で寝ている太ったおじさんは、胸を上下させながらいびきをかいている。私はおじさんが持っていた鞄に目をやった。有名ブランドのビジネスバッグだった。革靴もスーツも一流品と言うべきか、私はおじさんの財布からお金を抜き出そうとして辞めた。どうせこのおじさんが起きた時には、私はそれと同じくらいの大金が頂けて、私は盗みを働かなくても良くなるから。

ネオン街は、朝日を浴びると途端に大人しくなる。ホテルの清掃員が玄関の前を掃きながら、私とおじさんは腕を組んで外に出た。陽射しが眩しい、さっきまで薄暗い部屋にいたからだろうか。おじさんとは駅で手を振り、また来週に会う約束をした。手元には1万円札が10枚。おおよそ1週間は生きていける。もうとっくに過ぎ去ってしまった登校時間に欠伸をつけて、私は公衆トイレでリュックの中にしまってあった制服を取り出し、身につけた。

壮絶な中学受験を乗り越えて入学した女子校は、小学校よりも大人しい、いかにもお嬢様ばかりの学校で、興味のない宗教のイベントに参加して、入学して3年、中学校は卒業してしたが、高校になって3日で登校を辞めた。登校を辞めたといっても、出席日数が問題にならない程度には出席して、たまにこうして休む日は、大抵は身体をを売っていた。合法だとか非合法とか、そういうの私には関係がなかった。お金だけはある親の夫婦喧嘩に付き合わされ、適当な成績と適当な態度を取り、「ちょっと学校を休むけど、その他は特に問題のない子」を演じている。だからこうして息抜きが必要だ、好きでもないおじさんに承認欲求を満たされ、対価としてお金までもらえることが。

「ねえ、君いくつ?」

いつものように繰り出したネオン街、私は肩を叩かれて振り返ると、そこにいたのはカジュアルなテーラードジャケットにシワひとつないパンツ、品の良いリュックを背負った青年だった。私は何の約束も取り付けていないけどネオン街でお酒を買って道端で飲むのが好きで、その青年が私を買ってお金をくれるのだろうかと期待するまで頭が回った。当たり前のように、息を吸うように、私は年齢を詐称する。青年はにこりと笑って、私に手を差し出した。

「おいで、楽しいこと教えてあげる」

こういう誘い文句は大体がクスリだと思っているが、私は手を引っ張られ、その青年の後をついていった。連れて行かれたのはぼんやりとしたシルエットの至って普通のマンションで、到着したのはその203号室だった。物音は一切しない、どうやらクスリのパーティに呼ばれたわけではないらしい。だとすると私はこれから殺されるのだろうか、もう少し稼いでおけば良かった、そんなことを考えていると、部屋に案内された。ソファ、テレビ、ダイニングテーブルにベッド、インテリアのセンスは悪くなかった。生活感が消えたまるでショールームのようだった。ただ、キッチンにはあらゆる調味料が置かれ、ベランダには青年のものらしき洗濯物が干されている。私は不可思議に思い、眉を顰めながら青年に問うた。

「私に何か、用でも?」
「まあ、用っちゃ用なんだけど」

視線を逸らして少しだけ口籠った青年は、覚悟を決めたように私の眼を見つめて言った。

「これから君を、誘拐します」

私はたいそう腑抜けた顔をしていただろう。鳩が豆鉄砲を食らった以上の表情かもしれなかった。誘拐といえど、脅されてここまで来たわけではないし、拘束されているわけでもない、青年の部屋に連れてこられただけだ。誘拐といえば身代金だが、そういう辺りはどういうおつもりなのだろう。私は疑問でいっぱいだったが、青年はそれを読み取ったかのように頷き、私の前に模造紙を広げ始めた。

そこには、私と親しか知らないような個人情報がびっしりと書かれ、もちろん私の学校や担任の名前、行動パターンも記されていた。私はゾッとしたが、ここで怯んでいる場合ではない。逃げる事も考えたが、逃げたところで私の居場所は何処にもないのだ。例えお嬢様の学校に通っていても、お金持ちの家に住んでいても。私はソファに座り込み、模造紙を片っ端から眺めていった。よくもまあ、ここまで調べ上げたなと思ったが、青年は私に声をかけ、これまでの経緯とこれからの展望を述べた。私を誘拐して私の親に身代金を請求すること、私がいなくなったことによって私の親に反省してもらうこと、私の学校に私の存在を認知してもらうこと、青年は私の一体何なのかと思ったが、どうやら私の居場所の無さに気づいてどうにかしたいと思ったようで、だとするならば、この方法では青年が捕まってしまう。

「俺はいいの、そういうの気にしないし、君の世界を変えたいと思ってる」

そこまでして私の身体が欲しいのか、私の存在が欲しいのか、そう聞けばそうではないらしく、至って普通に生活してほしいとのことだった。お金はあるし、アルバイトをしてもいい、ただ、家と学校には行かないこと。それから、身体を売らないこと。私には承認欲求を満たしてくれる存在がいなくなることに危機感を覚えたが、どうやらそれは青年の役回りのようだった。青年は私を1人の人間として扱ってくれた。

無事に私の親に、私が誘拐されたことが伝えられ、私は晴れて誘拐された子になった。偽名と偽造された身分証明書が与えられ、この青年は一体何者なのかと思ったが、そういう質問はしないようにしていた。多分それって、野暮だから。青年は私に優しく、それでいて家事スキルも高かった。幼い頃からメイドが家にいた何にも出来ない私とは雲泥の差、たまに青年は家を出て働きに出た時に私が気を遣って家事に手を出したが、ことごとく失敗に終わり、帰宅後にそれを見た青年は腹を抱えて笑い転げまくった。その姿を見た私も何だか笑えてきて、2人でお酒を飲んで、ぐっすり眠った。青年は私に身体を求めることはなかったし、私が青年に身体を求めることもなかった。いたって健全な、プラトニックな関係だった。

「身代金が振り込まれた」

通帳を見た青年は私にそう呟いた。確かに3000万円が入金されている。親の資産からすれば大して痛くもない金額だろうが、私を救うために入金したのだと信じたい。それは「この現状を治めるため」ではなく「娘を助けるため」であってほしかった。私の願いを汲み取ったかのように、青年は私の頭を撫でた。大丈夫、と口から零しながら。

それから数日後、私はアルバイト先の飲食店で警察に確保された。青年はもちろん逮捕され、私の身柄は無事に親の元に返された。青年は一方的に自分が悪いと自供し、捕まる前に私に再三「脅されて誘拐されたと言っておいてくれ」と言い続けていた。私はその通りに言う他なかった。

親は私を心配していた。家に帰ると、親は肩を抱き合い、まるで私を歓迎しているかのようだった。いや、実際に歓迎していたのだろうけど、それから親の夫婦喧嘩はなくなっていった。学校に行くと、まるでヒロインのように私の周りに人だかりが出来た。思いの外、私はきちんと世の中に存在していることを知った。事情を知っていた学校の先生たちは私が見つかったことに安堵していた。

それでも私は、青年のことを恨んだりしないし、あの過ごした時間を決して忘れはしないだろう。以前の家よりも学校よりも、私はきっと私らしく存在していた。青年の言うとおり、私を誘拐することによって、私の世界は変わった気がするけど、青年の世界はもっと変わってしまったはずだ。そこまでして、青年はどうして私に関わったのだろう。

私の誘拐事件は、小さくメディアに取り上げられた。地方新聞の隅に書かれた記事の中で、その時私は初めて青年の本名を知った。私は見覚えのある字面を眺めて、隣で同じように記事を見ていた母親を振り返った。母親は、眼を見開き、それから唇を噛み締めた。父親は、何も気づいていなかった。私と母親だけが知っている、その名前は今後も家で語られる事はないだろうけど、私の世界の救世主であったことに違いはなかった。

私は、青年が16歳の時に生まれた、血の繋がった子だったから。

ネオンシャワー幻想

頂いたお金は、アプリ「cotonoha」の運営に使わせて頂きます。