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坂本龍一美術館

夏目漱石の夢十夜をモチーフにしたインスタレーションが特に印象的だった。

高校二年生のときに夢十夜を読んでいたのが、ここで伏線回収されて嬉しかった。
(読んでもよく分からなかったけど)

私が一夜目のお話を読んだ時は、なんだかかわいいお話という感じで(星のかけらを抱き上げるとあったかくなったという場面がおきにいり)、

それにしても亡くなった女にまた会うために百年待ったって男は一体何歳なんだ、と思ったくらいだった。



男が、我を忘れて日が昇り沈むまで、女を待っているのは無意識の世界。百合が咲き、はっと気づいたらものすごい時間が経っていた、というのは無意識を分析する意識の世界。

こういう時に時間が歪んでいるような感覚に陥るのはよくある。

時間は数直線上に均一にあるという、デカルト的な考えを坂本龍一は否定していた。そもそも時間という概念自体、人間が作り出した架空のものなのではないか、と。

もし時計やカレンダーがなかったら、待ち合わせは太陽が真上に来た時、とか 英語の試験時間は校長先生が校庭を10周散歩するまで、とかあるかもしれない。ギリ出来るのかもしれないけど、まあ困ると思う。

そもそも時計は人が作りだしたものに過ぎない。

時間のほんとうの姿は均一なものではなく、長くなったり短くなったり、行ったり来たりする(?)ものなのかもしれない。

男がまた女に会えるのを待ち続けているときは長く感じ、百合が咲き、それが女であると気づいたときに百年は一瞬であったと感じる。


邯鄲の夢。



私の人生も夢のように一瞬で終わってしまうのだろうか。


では夢と現実の違いはなに?

正反対のようで、似ているようにも思える。

行ったことある場所が夢に出てきたり、

夢に出てきた場所や場面を旅行先で見たり、この場面夢でも見たな、みたいなことは度々ある。

自分のいる、この世界は全部夢で、目覚まし時計の音でガバッと覚めてしまうようなものなのかもしれない、と幼少期に考えたのは私だけではないはず。

亡くなった人は天国でのベッドで目覚まし時計が鳴り、この世界の夢を見たのに過ぎないかもしれない。

なんだ夢か。と

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