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ジョージ・オーウェルの『公園の自由』が有する先見性


ジョージ・オーウェルは1945年に『公園の自由』という文章を発表している。


ロンドンの或る王立公園で左寄りの新聞を売っていた5名の人が通行妨害で逮捕されたと知ったオーウェルは疑問を抱く。

「自分の知る限り、街路にいる新聞の売り子は通行妨害に及んでいる。私や警察がそう判断すれば法的には通行妨害で逮捕できてしまう。だが、これらの売り子たちが逮捕されたという話は聞いたことがない。では、逮捕される売り子と逮捕されない売り子の違いとは何なのか?」



確かに「警察が左寄りの新聞を売っていた5名を摘発したのは偶然だ」と考えるのは無理がある。オーウェルは「ともかくこの出来事で最も重要な点は新聞やパンフレットの売り子がその活動を妨げられてしまうということだ」と述べ、1945年当時の英国における事情を次のように指摘する。


この国では、出版の自由の程度というものがしばしば過大に評価されている。法律上は非常に広範な自由が存在するが、実際のところ、大半の出版社は国家による検閲と大差ない行為に及んでいる少数の人間に所有されているのだ。その一方、言論の自由は本物である。演壇の上で、あるいはハイド・パークといった特定の認められた野外スペースでは、ほぼ全てのことが発言できる。さらに重要なのはパブやバスの中といった場所で、自分の本心からの意見を語ることを恐れる者が誰一人としていないことだろう。


この箇所は、ネットが普及する前の時代背景と、自分の本音を周囲に、はっきりと語る英国人気質(日本だと自分の本音を話すことにためらいを示す人が多いのではないか)が反映されている文章だと思う。



私が特に評価したいのは以下の箇所である。


肝心なのは、我々が享受しているこれらの自由が世論に依存しているという点である。法律がその自由を保護している訳ではない。法律を作るのは政府であるが、それが実行に移されるのか否かや、警察がどのように振る舞うのかは、この国の世相に依存している。仮に法律がそれを禁じたとしても、多くの人々が言論の自由に関心を示したなら、言論の自由はそこに存在する。その一方で、仮に彼らを保護する法律が存在したとしても、もし世論が鈍ければ、都合の悪い少数派は迫害されていくだろう。個人の自由に対する欲求は、第二次世界大戦が始まった六年前に私が予測した程には衰えていないが、依然として、そういった傾向は存在する。特定の意見に対しては、そういう自由を見過ごしてはならないという考えが広がっているが、そういった考えを広げているのは知識人たちなのだ。彼らは「民主的な反対行為」と「公然とした反抗」を区別できず混乱状態に陥っており、そのことは海外における圧制と不正義に我々が無関心であることを反映している。「自分たちは意見表明の自由を支持している」と公言する者たちでさえ、その多くは、起訴されるのが自分たちの敵対者である場合にはその声を潜めるのだ。


或る弁護士が「大韓民国には国民情緒法が存在する」という記事を書いていたが、大韓民国に限らず、民主主義国家においては表現の自由の解釈が世相に依存しがちなのも確かであろう。


なお、<「自分たちは意見表明の自由を支持している」と公言する者たちでさえ、その多くは、起訴されるのが自分たちの敵対者である場合にはその声を潜めるのだ。>という箇所を読み、ネット左翼とネット右翼の対立を連想した人は少なくないのではないか。



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