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善不善を知り正見を得る 中部#9 正見経 読了

2023/02/21 に 中部#9 正見経 Sammādiṭṭhisuttaṃ を読了しました。

サーリプッタ長老が「正見のある者になる法門」を比丘たちに解説しています。(正見: sammādiṭṭhi)

不善と善

不善(akusala)として以下の10項目が挙げられています。(十不善業道)
「Aは不善です。」(A akusalaṃ)という形式です。

  • 殺生

  • 偸盗

  • 邪婬

  • 妄語

  • 両舌

  • 悪口

  • 綺語

  • 貪欲

  • 瞋恚

  • 邪見 (micchādiṭṭhi)

そして、不善の根本(akusalamūla)として貪・瞋・痴が挙げられています。

(kusala)として以下の10項目が挙げられています。(十善業道)
「Bは善です。」(B kusalaṃ)という形式です。

  • 不殺生

  • 不偸盗

  • 不邪婬

  • 不妄語

  • 不両舌

  • 不悪口

  • 不綺語

  • 不貪欲

  • 不瞋恚

  • 正見 (sammādiṭṭhi)

そして、善の根本(kusalamūla)として不貪・不瞋・不痴が挙げられています。

友らよ、聖なる弟子が、このように不善を知り、このように不善の根本を知り、このようにを知り、このように善の根本を知るとき、かれはすべてにわたり、貪という潜在煩悩を断ち、瞋という潜在煩悩を除き、〈私はある〉という見のような慢の潜在煩悩を根絶し、無明を捨て、明智を起こし、現世において苦の終わりを作る者となります。友らよ、これだけをもって、聖なる弟子は、正見のある者になり、その見は真直ぐになり、法に対して絶対的な信仰をそなえる者になり、この正法に到達する者になるのです。

パーリ仏典 中部 根本五十経篇I 片山一良
第9 正見経
p. 142

(潜在煩悩: anusaya, 見のような慢の潜在煩悩: diṭṭhimānānusaya, 絶対的な信仰: aveccapasāda, 正法: saddhamma)

以下同様に、「聖なる弟子が、(X・Xの生起・Xの滅尽・Xの滅尽にいたる行道)を知るとき、(略)この正法に到達する者になるのです。」という法門の説示が続きます。

四食

(āhāra)の説明は以下の通りです。

友らよ、すでに生まれている生けるものたちの維持のために、生まれを求めるものたちの保護のために、これらの四の食があります。四とは何でしょうか。粗大あるいは微細な物質食、第二は接触食、第三は意思食、第四は意識食です。
渇愛の生起から食の生起があります。
渇愛の滅尽から食の滅尽があります。
かの聖なる八支の道こそ、食の滅尽にいたる行道です。すなわち、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定です。

p. 143

聖なる弟子が、このように(食・食の生起・食の滅尽・食の滅尽にいたる行道)を知るとき、(略)この正法に到達する者になるのです。

苦 四諦

(dukkha)の説明です。(p. 144-145 から一部変更)

生まれ・老い・(病い)・死・愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは苦です。
愛さない者たちと結ばれるのも苦です。(怨憎会苦おんぞうえく)
愛する者たちと結ばれないのも苦です。(愛別離苦あいべつりく)
求めて得られないのも苦です。(求不得苦ぐふとくく)
要するに五取蘊ごしゅうんは苦です。
これがと言われます。

苦の生起とは、再生を起こし、歓び貪りを伴い、ここかしこで歓喜する渇愛です。すなわち欲への渇愛(kāmataṇhā)・生存への渇愛(bhavataṇhā)・虚無への渇愛(vibhavataṇhā)です。

苦の滅尽とは、その渇愛の消滅による完全な滅尽、捨棄、捨離、解脱、無執着です。

かの聖なる八支の道こそ、苦の滅尽にいたる行道です。すなわち、正見〜正定です。

聖なる弟子が、このように(苦・苦の生起・苦の滅尽・苦の滅尽にいたる行道)を知るとき、(略)この正法に到達する者になるのです。

(先述のXに「苦」を適用すると、四聖諦 [苦・集・滅・道]となることが分かります。)

老死

(p. 146 から一部変更)
それぞれの生けるものたちの、それぞれの生けるものの類における、老・老衰・歯の欠落・白髪の生え・皺の寄り・寿命の減少・諸器官の老熟です。
これが(jarā)と言われます。

それぞれの生けるものたちの、それぞれの生けるものの類からの死去・死没・破壊・滅没・死亡・命終・諸蘊の破壊・身体の放棄・命根(jīvitindriya)の断絶です。これが(maraṇa)と言われます。

これが老死(jarāmaraṇa)と言われます。

生まれの生起から老死の生起があります。
生まれの滅尽から老死の滅尽があります。

かの聖なる八支の道こそ、老死の滅尽にいたる行道です。すなわち、正見〜正定です。

聖なる弟子が、このように(老死・老死の生起・老死の滅尽・老死の滅尽にいたる行道)を知るとき、(略)この正法に到達する者になるのです。

生 (生まれ)

(p. 148 から一部変更)
それぞれの生けるものたちの、それぞれの生けるものの類における生まれ・誕生・入胎・発生・諸蘊の出現・諸処の獲得です。(処: āyatana)
これが生まれ(jāti)と言われます。

生存の生起から生まれの生起があります。
生存の滅尽から生まれの滅尽があります。

かの聖なる八支の道こそ、生まれの滅尽にいたる行道です。すなわち、正見〜正定です。

聖なる弟子が、このように(生まれ・生まれの生起・生まれの滅尽・生まれの滅尽にいたる行道)を知るとき、(略)この正法に到達する者になるのです。

Xの生起・滅尽・滅尽にいたる行道については、次のような形式となっています。

Yの生起からXの生起があります。
Yの滅尽からXの滅尽があります。
かの聖なる八支の道こそ、Xの滅尽にいたる行道です。すなわち、正見〜正定です。

Y→Xは縁起の関係です。生存(有)→生まれ(生)、生存(有)→取著(取)のように続きます。

以降はXの説明だけを記載します。

有 (生存)

(p. 149 から一部変更)
これら三の生存(bhava)があります。すなわち、欲の生存(kāmabhava)、色の生存(rūpabhava)、無色むしきの生存(arūpabhava)です。

取 (取著)

(p. 150 から一部変更)
これら四の取著(upādāna)があります。すなわち、欲の取著(kāmupādāna)、見の取著(diṭṭhupādāna)、戒禁の取著(sīlabbatupādāna)、我語の取著(attavādupādāna)です。

愛 (渇愛)

(p. 152 から一部変更)
これら六の渇愛の集まり(taṇhākāya)があります。すなわち、色への渇愛、声への渇愛、香への渇愛、味への渇愛、触への渇愛(phoṭṭhabbataṇhā)、法への渇愛(dhammataṇhā)です。

受 (感受)

(p. 153 から一部変更)
これら六の感受の集まり(vedanākāya)があります。すなわち、眼の接触から生じる感受(cakkhusamphassajā vedanā)、耳の接触から生じる感受、鼻の接触から生じる感受、舌の接触から生じる感受、身の接触から生じる感受、意の接触から生じる感受です。

触 (接触)

(p. 154 から一部変更)
これら六の接触の集まり(phassakāya)があります。すなわち、眼の接触(cakkhusamphassa)、耳の接触、鼻の接触、舌の接触、身の接触、意の接触です。

六処

(p. 156 から一部変更)
これら六の(āyatana)があります。すなわち、眼の処(cakkhāyatana)、耳の処、鼻の処、舌の処、身の処、意の処です。(六処: saḷāyatana)

名色みょうしき

(p. 157 から一部変更)
感受(vedanā)、想(saññā)、意思(cetanā)、接触(phassa)、注意(manasikāra)です。これが(nāma)と言われます。

四大要素(cattāri mahābhūtāni)、四大要素を取る色(catunnaṃ mahābhūtānaṃ upādāyarūpa)です。これが(rūpa)と言われます。

これが名色(nāmarūpa)と言われます。

(p. 158 から一部変更)
これら六のの集まり(viññāṇakāya)があります。すなわち、眼の識(cakkhuviññāṇa)、耳の識、鼻の識、舌の識、身の識、意の識です。

(p. 160 から一部変更)
これら三の(saṅkhāra)があります。すなわち、身の行(kāyasaṅkhāra)、語の行(vacīsaṅkhāra)、心の行(cittasaṅkhāra)です。

無明

(p. 161 から一部変更)
苦に対する無知、苦の滅尽に対する無知、苦の滅尽にいたる行道に対する無知、これが無明(avijjā)と言われます。(無知: aññāṇa)

煩悩の生起から無明の生起があります。
煩悩の滅尽から無明の滅尽があります。

かの聖なる八支の道こそ、無明の滅尽にいたる行道です。すなわち、正見〜正定です。

煩悩

(p. 162 から一部変更)
これら三の煩悩(漏, āsava)があります。すなわち、欲の煩悩(kāmāsava)、生存の煩悩(bhavāsava)、無明の煩悩(avijjāsava)です。

無明の生起から煩悩の生起があります。
無明の滅尽から煩悩の滅尽があります。

かの聖なる八支の道こそ、煩悩の滅尽にいたる行道です。すなわち、正見〜正定です。

友らよ、聖なる弟子が、このように煩悩を知り、このように煩悩の生起を知り、このように煩悩の滅尽を知り、このように煩悩の滅尽にいたる行道を知るとき、かれはすべてにわたり、貪という潜在煩悩を断ち、瞋という潜在煩悩を除き、〈私はある〉という見のような慢の潜在煩悩を根絶し、無明を捨て、明智を起こし、現世において苦の終わりを作る者となります。友らよ、これだけをもって、聖なる弟子は、正見のある者になり、その見は真直ぐになり、法に対して絶対的な信仰をそなえる者になり、この正法に到達する者になるのです。

p 163

まとめ

  • 不善・不善の根本・善・善の根本

  • 食・食の生起・食の滅尽・食の滅尽にいたる行道

  • 四諦 (苦・苦の生起・苦の滅尽・苦の滅尽にいたる行道)

  • 老死・老死の生起・老死の滅尽・老死の滅尽にいたる行道

  • 生まれ・生まれの生起・生まれの滅尽・生まれの滅尽にいたる行道

  • 生存・生存の生起・生存の滅尽・生存の滅尽にいたる行道

  • 取著・取著の生起・取著の滅尽・取著の滅尽にいたる行道

  • 渇愛・渇愛の生起・渇愛の滅尽・渇愛の滅尽にいたる行道

  • 感受・感受の生起・感受の滅尽・感受の滅尽にいたる行道

  • 接触・接触の生起・接触の滅尽・接触の滅尽にいたる行道

  • 六処・六処の生起・六処の滅尽・六処の滅尽にいたる行道

  • 名色・名色の生起・名色の滅尽・名色の滅尽にいたる行道

  • 識・識の生起・識の滅尽・識の滅尽にいたる行道

  • 行・行の生起・行の滅尽・行の滅尽にいたる行道

  • 無明・無明の生起・無明の滅尽・無明の滅尽にいたる行道

  • 煩悩・煩悩の生起・煩悩の滅尽・煩悩の滅尽にいたる行道

聖なる弟子が、[上記の項目]を知るとき、かれはすべてにわたり、貪という潜在煩悩を断ち、瞋という潜在煩悩を除き、〈私はある〉という見のような慢の潜在煩悩を根絶し、無明を捨て、明智を起こし、現世において苦の終わりを作る者となります。友らよ、これだけをもって、聖なる弟子は、正見のある者になり、その見は真直ぐになり、法に対して絶対的な信仰をそなえる者になり、この正法に到達する者になるのです。

参考訳: パーリ仏典 中部 根本五十経篇I 片山一良 (大蔵出版)

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