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私以外の誰にも必要とされていない言葉を書き続けること
ここ数年頓に思うのは、やはりちゃんと正当な努力をしなければならないということ。正攻法で勝てるタイプじゃなくても、いや、じゃないなら一層、正攻法で勝てるタイプのうん十倍も努力しなきゃいけないんだなと思う。結局キャリアを積んでいくと基礎力というか実力の差が出てくる。一流の人間はみんなどこかでこういうタイプの鍛錬をしていると思う。例外もいるかもしれないが、そんな言い訳をしているからいつまで経っても駄目なのだ。
村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』の名言の一つに「自分が最も欲しいものは何か分かっていない奴は、欲しいものを手に入れることが絶対にできない」というのがあるが、本当にその通りなのだと思う。自分がどうなりたいか明確に分かっており、そのためにどうすべきかも分かっていて、もうすでに着手している人と、自分がどうなりたいかすら分かっていない人とでは雲泥の差がある。ああコイツは少なくとも今のままじゃどうにもならんなと思う人は確実に後者である。これは誇張した譬えだが、小説家になりたいのにまだ書いたことすらない人やまだ書きあげてもないのに仕事をやめてしまう人がいて、まあそんなの勝手にすればいいが、アラサーにもなってそんな話をまともに聞いてくれる人なんているわけないじゃん、そんな話されたら誰だって苛々するだろ。
まず売れたいのか売れたくないのか、私は売れたいわけじゃないが書いたもので稼げるようになれれば嬉しいとは思う、が、生活は人質だと思っているので仮にある程度書き物で稼げるようになってもギリギリまで他の仕事は手放さない方がいいと思っている。高く評価されたいわけでもないが、賞などをきっかけに知ってもらえることは大いにあるので一応積極的にチャレンジはする。何がしたいってとにかくいいものを書きたい。いいものを書くために、少しは売れた方がいいし、ある程度は評価される必要がある。あと一流になりたい。何をもって一流とするかという問題はあるものの、それはとりあえず置いておいて、なぜ一流になりたいか。それは一流の人にならないと一流の人に会えないからだ。乗代雄介も以下のように書いている。
これは、山下達郎と桑田佳祐がラジオでしていた話なんですが、山下達郎が通っていた都立の進学校では、クラスの半分がビートルズの公演を観に行っていて、教室で「You're Going To Lose That Girl」を歌ったりしていたそうです。一方、鎌倉の私立の桑田佳祐のクラスでは、「Come together」の「シュッ」のモノマネがされていただけ。桑田佳祐は「東京はやっぱり違う、まず横浜に関所があるから」と笑い話にしていましたが、そういうことって確かにあるとあなたを見ててそう思うわけです。
で、僕が言いたいのは、そんな風に自分のいる環境に差があるのをすっ飛ばして、今、最後に挟み込んだ文の元ネタがさだまさしの「無縁坂」だとわかった人は、このネットの世界には確かに何人もいるだろうなということなんです。柏の学校にはいなかったから、さだまさしが好きだった高校時代の僕は休日に一人、iPodはもう出ていたけどMDプレイヤーで「木根川橋」を聴きながら、荒川にかかるその橋までぶらぶら歩いて行ったこともあるけれども、ネットならそうじゃないぞ、と。
確かに、実際、そういう世界がネットにはありました。同じ文化を共有できそうな人が沢山いて、ブログを書いている人も沢山いました。でも、はっきり言って、そんなことは何の助けにもならなかったのです。理由は、さすがにこの年齢になるとわかるような気がしますが、僕は別に趣味の合う友達がほしかったわけではなく、山下達郎とか桑田佳祐とかみたいなすごい人に出会うことを求めていたのでした。哀れなことですが、自分のことを棚に上げて山下達郎や桑田佳祐レベルの人に会いたいという尊大な要求をして、全然ダメだとがっかりしていたのです。結局、ネットも現実も変わらないじゃないか、と。
〈中略〉
ネットだって結局は生身の人間がやっている営みなんだから、そこで他人をあてにするなんてやっぱり間違ってるんだ、現実と一緒で、みんな一人でやるしかないんだ、誰に読まれなくてもいい、一人でどれだけやったか、考えたかなんだ。
単行本収録じゃなかったかと思いめっちゃ探しちゃったがネットにあった。これ本当に面白いので全文読んだ方がいい。ブログのために生きるというのがどういうことか分かる。常軌を逸しすぎていて迫力がある。消える前にオフライン保存しよう。
私は本当にこういうことだと思っている。一人でやるしかない。一人でどこまでもやっていくしかないのだ。それだけが実力だ。
「私以外の誰にも必要とされていない言葉を書き続けること」
自分のためだけに書くには鍛錬が必要だ。私はそういう鍛錬をブログを通してやってきたと思っている。誰かに褒めてもらえないと書き続けられないような奴は書かなきゃいいのだ。私は他の誰のために書いているわけではない。私は私のためだけに書くのである。こういうことがてんで分からない人というのは腐るほどいて、私の周りもそんな人ばかりなのだが、まあもうそんなことは別にどうでもよくて、でも少なくともそのように書いている人がこの世にはいるのである。
最近同じ業界の知人と話していたのは、短期間にものすごい量の作品を発表している人、あれ消費されているからやめた方がいいのでは、ということだ。とにかく売れたいというのならしょうがないが、そうでもないならあんまり働きすぎるとどんな人も才能が枯渇し使い潰される、新刊が量産のためのセルフオマージュと化していく。やりすぎ、やらせすぎ、よくないよ、という話。消費されるというのは替えはいくらでもいるということ。日本の文学業界にその人の替えはいくらでもいるかもしれないが、その人にとって自分の替えはいない。才能はここになければどこにもない。だから誰にも消費させるべきではないと私は考えるが、しかし、これを断ったらもう依頼が来ないんじゃないかとか、生活もあるだろうし大変なんだろう。私はそんな状況になったことがないので杞憂だが、先ほども書いた通り「生活は人質」なのだよ。そんなに簡単に譲り渡していいものではない。そんなことを言い出したら作品を金にすること自体どうなんだとも思わなくはないけど、資本主義社会において金にならないものは真っ先に消えていくので綺麗事も言っていられない、私はある程度諦めている。
「オレはいいけど、ヤザワはどうかな」みたいな話になってしまうが、結局私は売れなくても、読まれなくてもまあいいっちゃいいんだよね。書けさえすれば。けど売れない作家に書かれたばかりに読まれない作品は気の毒だなと思う。可哀想。不憫。だからこの作品が浮かばれるように、少なくともやれることはやらないと、と思う。まずちゃんと作品として形にしてあげること、それをそのときできる一番いい形で送り出すこと。その先で売れるか売れないか、評価されるかされないかは私がどうこうできる話じゃない部分も大きいので、でもせめてそこまでは。どうにかしてやりたい。めちゃめちゃ書き溜めてあるやつ、ほんとどうするよ。半分くらい書き捨てみたいになってるからね。