【天気の子批評】大人には何が出来るんだろう?子供には何が出来ないんだろう?【7484文字】
本作を簡単に表すなら「大人である事の制約、子供である事の制約。その中で僕達はどうすればいいんだろう?そもそも大人と子供の定義ってなんなんだろう?」だと思います。
なんだか思春期の悩みあるあるに聞こえますが、作中でそうであったようにある程度大人になった人達にも重要な問いかけでした。
大人になり過ぎてもダメだし、子供過ぎても勿論ダメで、バランスよくそのどちらでもある事が大事なんだというメッセージを受け取った気がします。
大人と子供って何だと思いますか?
そんな事を少しだけ頭の隅に置きながらこの記事を見て貰えれば幸いです。
批評に入る前に。私の記事では恒例となるお話ですが、当記事で扱うのは映画から得られる情報のみです。
小説版のお話は勿論、監督インタビューやら何やらと言った作品外の情報についても扱いません。理由は以下の記事を参照。
作品で示される「大人」「子供」の定義
本作では大人と子供の基準が以下のように示されていました。
大人=須賀さんや警察など
↳何をしなければならないのか、何をしてはいけないのかの分別がついており、それに従って行動する。“行動してしまう“。社会的な原理や摂理の象徴。
子供=穂高
↳社会的な摂理や原理も概要は理解しているが、基本的に何がしたいかを優先して行動する。意志の象徴。
例えば度々出てくる警察は、自分自身がそうしたいから穂高を追っているのではなく法や規則と言った社会摂理に従って穂高を追っているに過ぎません。お仕事だからやっているだけというお話ですね。そこに彼らやその他の意志は関係無く、そうしなければならないからそうしているだけです。
他には穂高に比較的友好な大人である須賀さんも、ストーリー後半では警察沙汰やそれに伴う自分への影響を考慮し、穂高に対して「あるべき姿に戻れ(社会の摂理を全うしろ)」という事を言っていました。
対して子供である穂高は「地元は何か息苦しい」という自分の気持ちに従って保護者の庇護から抜け出してでも家出をしたり、警察から逃げ出してでも陽菜を求めたりとこれは社会の摂理や“しなければならない事“ではなく本人がやりたいからやっている事ですね。やるべき事はやらずやってはいけない事はやっているので大人とは正反対の性質を持っていると言ってもいいでしょう。
このように大人的行動と子供的行動を明確にすると、主要人物が今どちらに傾いているのかを認識しやすくなりますね。
もう1つ語句を説明させてください。
本作を批評するにあたって「意義」というワードも重要になってきます。
意義とはつまり、誰かにとっての意味や価値というような言葉です。
今作で象徴的だった意義としてはやはり“晴れ“でしょう。
晴れ屋さんをやっていた時に、老若男女様々な人がそれぞれの晴れにしたい理由(晴れに抱く価値)を語っていましたね。
・外で駆けっこがしたいから
・この日の為に頑張ってきた準備してきたコスプレをしたいから
・流星群を観測したいから
・一生に一度の結婚式だから
・競馬で勝ちたいから
誰かにとっては何の価値も無いかもしれない。それでも他の誰かにとっては「本当にありがとう」と言える程価値あるものとしてそれが存在する。
ここで言う意義とは、そういうものです。
例えば穂高は島に居た時の夢を見た時、「あの光(光芒)に入りたくて必死に走って、その果てに陽菜が居た」と語っています。
穂高にとっては陽菜はただハンバーガーをくれた女の子でもただの仕事のパートナーでも無く、ずっと行きたかった場所で輝く特別な女の子という意義が付与されている事が窺えます。
穂高という雛鳥
家出という、とても子供的行動に出た穂高はその先で様々な大人としての洗礼、つまり原理や摂理に出会います。
・身分証が無いと働けない
・働かなければお金は減っていき、生きていけない
・街の端っこで蹲っているだけで警察に声を掛けられる
・銃器を持てば警察に追われる
このような社会摂理ですね。
社会摂理に則らなければほとんどの人間は生きてはいけませんし、社会自体が摂理から外れる事を簡単には許容してくれない構造になっています。
摂理とは道理であり、一方が立てば一方は折れるしかありません。
働くか、死ぬか。
銃器を持たないか、警察に追われるか。
例えば身分証も無く働かずに生きていられるのは(つまり摂理を全うしないのは)保護者に養われているような子供です。大人になってから身分証も無く働かずにも生きていく事は社会の中では相当困難でしょう。
大人達が当たり前に選択しているそんな摂理の1つ1つを穂高は知っていき「東京ってこえー」という言葉と共に“どのような摂理が存在するのか“を知り、その中で選択を迫られていきました。
そしてこの世界で示された摂理はそれだけではありません。
晴れを願えば陽菜を失う
陽菜を願えば世界は晴れを失う
当然社会摂理と同様、この世界摂理も選択しなければならないはずです。
が、それが摂理だと明かされて選択を迫られたのはストーリー後半のお話。
選択されずに曖昧になっている間、つまり晴れもあるし陽菜もあるというこの摂理を全うしていない子供的な期間(晴れ屋さんをやってる時期)では、穂高はとても楽しそうに過ごしていましたね。
そこに存在する摂理を知らないまま過ごし両方の旨味だけを享受する、正に上で示した“子供“の在り方です。
残念ながら私達を、あるいは穂高を生かしているのは神様ではなく世界や社会である為この願いは聞き入れられませんでした。
それどころか、これまで曖昧にしてきた反動で社会と世界両方の摂理に一気に従わなければならなくなりました(穂高は警察に連行され、陽菜も失う)。
子供の我儘には誰も付き合ってくれない。そんな風に世の中は出来ていない。
彼もそう痛感したはずです。
その後、最終的に穂高は止まない雨と引き換えに陽菜を選びました。
その行動と決定がどういう意義を持つのかという話をする前に、先送りにしていた【陽菜は子供だったのか?】というお話をしましょう。
陽菜は子供と大人どちらだったんだろうか
自分の存在と引き換えに晴れを呼べる陽菜。
そんな彼女の心に映る本作というストーリーは、子供の我儘と理不尽ばかりを感じていた穂高とは正反対だった事でしょう。
母親を亡くし、弟と自分の生活費を稼ぐ為に年齢を偽ってアルバイトをしていた陽菜。
アルバイトをクビになってしまい、実入りの為に身体を売ろうとしていた陽菜。
自分が消えていく予感を持ちながらも、誰かの笑顔の為に晴れを呼び続けた陽菜。
Aを得るならBは得られない。
私が晴れを呼ぶなら私は失われる。
そんな世界の摂理を、彼女はしっかりと全うし続けていました。
しかも彼女はただ摂理を全うしていただけではありません。
“自分は何がしたいか“という、大げさに言えば人生の意義をしっかりと見出していました。
「もう一度だけでも、晴れの下でお母さんと歩きたい」
陽菜のその願いは残念ながら社会や世界の摂理には適っておらず成就しませんでした。
だからこそ自分が「晴れを呼べる1つの摂理」である事、即ち誰かの晴れに対する思いを汲み、叶えられるこの仕事を心から好きだと思えたのでしょう。
自分自身は何がしたいかで行動をしつつ、摂理は摂理でしっかりと遵守していた。
なので自分が好きだと思える、やりたいと思える事の摂理として自分が消える事を拒まなかった。
彼女は「もう晴れを呼びたくない」あるいは「消えたくない」とは一言も言いませんでした。
空が晴れる事と自分が消える事。どちらも間違いなく彼女自身の選択で、故にその結果に何の不満も無く、だから自分が消えるとしても、その摂理を遂行出来る事に感謝すら覚えていたのでしょう。
このように陽菜は本作で示される「摂理や原理を全うする大人」そして「意義の中に生きる子供」の2つを綺麗に両立し、最も生き生きした人物だったように思えます。
世界に満ちる、雨と意義
穂高の話に戻りましょう。
一度陽菜自身の選択によって陽菜は失われ、世界は晴れを取り戻しました。
しかしその後の穂高の選択で、雛を取り戻した代わりに止まない雨を世界にもたらしましたね。
これは「晴れか陽菜か」という、他人(この場合は陽菜)によって遂行されてしまった摂理を穂高自身が改めて選択して遂行したと言えます。
しかしこれに何の意味があるのでしょうか?
世界の状態だけ見るならば、陽菜が居た頃に戻ったというだけです。元々晴れ屋さんが出動しなければ雨続きだったような狂った天気なのですから、恐らく同じ様に3年後だかには東京の一部が水没していたでしょう。
言ってしまえば物語冒頭と物語の最後で世界の状態は何も変わりません。
長い歴史という観点で見れば気候の変動なんかいくらでもあったから世界は別に変わったわけじゃない、あるいは元々狂っていた、という話をしてくれる人も居ます。
それでも最後に穂高は「僕達が世界を変えたんだ」と高らかに断言します。
世界の在り方は短期的にも長期的にも変わっていないのに、確かに世界は変わった、と。
では何が変わったのか?
それは穂高自身が言うように、“自分自身で選択したかどうか、即ち世界に意義を見出して摂理を遂行した世界かどうか“という点が変わったのでしょう。
はっきり言って穂高は子供でした。
逃避したり先延ばしにしたりしては自分の思い通りに行く事を願うばかり。その為に必要な摂理を遂行しようとはしませんでした。
そしてそれを続ける事によって陽菜を失うという手痛いペナルティを負ってしまいます。
そこで気づいたのです。逃避したり選択をしないという事は、結局摂理であったり他人の選択によって自分の大切なものが失われるかもしれないのだという事に。
だから自分で選択をし、摂理を遂行しなければならないのだという事に。
そしてようやく最後に“晴れを無くす代わりに陽菜を取り戻す“という摂理を遂行したのです。
加えて、空の上で陽菜も「穂高と一緒に生きていたい」という選択をしました。勿論、陽菜は摂理を遵守していたので「雨が止まなくても」という意味も込みでしょう。
だからこの雨に満ちた世界は穂高と陽菜自身の意義によって実現した世界で、言ってしまえば雨が降っている事そのものが陽菜が居る事と自分達がそれを選んだ事の証明そのもので、だから3年ぶりに陽菜に会った時に上の引用のような事を思ったのでしょう。
なるほど。世界は確かに変わっていました。
なんとなく逃げたり、親に、社会に、あるいは家出先で出会ったアヤシイおじさんに何とか生かして貰っているだけの世界から、自分自身がこうしたかったんだと確信して生きる世界に。
つまり穂高自身が明確に価値を見出した世界に。
だから、僕達は自分の意志でここに居るのだから、どんな世界でも何があってもそれも僕達の意志の内で、選んだ事で、であれば僕達ならそこに意義を見出して生きていけるんだ。陽菜が「ありがとう」と言ったように、どんな摂理にももう不満は無いんだ。きっと大丈夫だ!
とても子供だった穂高の、そんな大人子供入り混じる精神の成長を見て取れました。
そしてこの“自分の選択と意義を、摂理の中で全うする“
という大人と子供の両方の性質を持つものが、本作で表される輝く生であり、立派でカッコいい人なのかな、とそう感じられました。
何も作中の話だけではありません。
私達の世界も作中と基本構造は変わらず、たくさんの人が社会という摂理の中で生きています。生存はしています。
ですがただ生存しているだけではなく、その摂理の中にあっても自分の意志で選択し、「だから大丈夫」「だからありがとう」と言えるような、意義ある輝かしいものとして世界を享受する事の大切さを再確認させられる作品でした。
大人と子供のフィロソフィー
穂高が1つの摂理との折り合いをつけて大人の性質を獲得した一方で、逆に子供の性質を獲得した人達も居ました。
特に象徴的な人物はやはり須賀さんでしょう。
彼は大人として摂理を遂行しており、警察が彼の元を訪ねて以降は最後のギリギリまで穂高に対して親元に戻る事や自主する事を勧めていました。
穂高を雇う際はともかく後半の彼の行動は社会的に見てとても正しかったし、ただ摂理で動くのではなくしっかりと穂高への思いやりを持っていてとても優しい部類の大人であったと思います。
それでも最後の最後で摂理から外れて「穂高がしたい事」の後押しとなる行動をしてくれたのは、穂高の行動と意志力に感化されて「穂高と陽菜」「自分と明日香」を重ねて「会いたい人に会う事の意義」を強く思い起こしてしまったからでしょう。
須賀さんは自分の意志では亡き妻の明日香さんの事を口にしないものの、寝言で名前を呟いていたり、事ある毎に指輪を触っていた李、穂高と陽菜の話を聞いて知らずの内に涙を流していたりと、心の内では「会いたい人にもう会えない摂理」のつらさを誰よりも噛み締めていた人物です。
そしてその摂理は今まさに穂高に襲い掛かろうとしている。自分と同じ思いをしようとしているかもしれないんだ。
そうした思いでほんの少しだけ、摂理ではなく意義で行動してしまったのでしょう。確かに大人として社会の摂理を遵守していたはずの彼が。
他にも、社会の摂理っぽいものに従って就活をしていた夏美なんかも物語後半では自分の意義を見出しそうになっていたような気がします(結果どうだったかの描写は特にありませんでしたが)
逆に年齢としては一番大人であった刑事さんが、1人の女の子を見つける為に警察からすら逃げ出す穂高の事を「羨ましい」と感じていたのは印象的でした。
彼は大人になり過ぎてしまった、つまり摂理ばかりになってしまったから“自分は何がしたいか“でここまで動ける穂高を羨ましいと思ってしまったというお話ですね。
それはそうです。“何をすべきか“だけで生きてたら、それは摂理そのもので、言ってしまえば物理現象と何ら変わりません。
重力があるから地上に落ちる。100℃になったから沸騰する。罪人が居るから捕まえる。それ以上でもそれ以下でもない。それだけ。
そんな現象の1つになってしまった彼からすれば、穂高はとても生き生きと映っていた事でしょう。
世界はきっと、思っているよりもずっと優しい
神主や須賀さんが言っていたように、現代を生きる私達にとっては異常で狂ってしまった世界でも世界自身にとっては今まで何百年何千年何億年という周期の中で起きてきた変化のほんの一端に過ぎなくて、いくら変わってしまおうが世界は世界として在るしそれが新しい世界の形になっていく。
そこに住む人間達も順応し、そこに新たな摂理や原理を見出して生きていきます。
だからきっと今ある摂理なんていうものは誰かの意義や選択の結果に付随してきたもので、であればいつかどこかで何かに意義を見出したあなたや私が居るのなら、今そこにある摂理なんて振り切ってでも行動するべきなのかもしれませんね。その選択の先にある摂理に意義を見出して遂行出来るなら。その覚悟を決められるのなら。
世界はいつだって、世界自身の“こうあるべき“ではなくて、どこか誰かの“こうありたい“の結果の姿なのかなーなんて事を思いながら、スタッフロールを眺めていました。
おわり
おわりです。
劇場で観た時は、音や画面と言った作品外形の強いインパクトに圧倒されたり視聴しながらえんえん泣いたりしてたのでちゃんとした批評が出来ていなかったのですが、改めて整理するとかなりシンプルな構造になっている事に気づき、にも関わらず観る人の感情をここまで引き出せる題材の膨らませ方や盛り上げ方に改めて感嘆しました。
何か象徴的なモチーフがある作品は、そのモチーフを見た時に作品で得た感情を呼び起こせるのが素敵ですよね。
この記事を読んで何かを感じて、その感じた事を現実世界の晴れ模様とか雨音とかに投影して貰えるような記事になっているといいなあ。
今は同監督の新作、『すずめの戸締り』が上映していますね。
劇場だと細かい描写の再確認やメモが取りづらいので批評は難しいですが、とりあえずワーキャー楽しむ為に行っておきたいところです。気に入ったら円盤や配信された際にまた批評をしようと思います。
あと、今作と同様に「大丈夫」という事が非常に重要な意味を持つ『秒速5センチメートル』の批評記事も結局公開に至っていないのでそれも……あと天気の子と一緒の見た『君の名は。』の批評も……あぁ…………
了
追記:すずめの戸締まり、秒速5センチメートル共に批評書きました。よければ覗いてみてください!