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今年の父の日。

父の日前日の土曜日、娘から「父の日だから」と久保田の千寿を一本、ドーンとプレゼントされました。

300mlなので妻とすぐ飲んでしまったのだけれど。
笑いながら美味しいねえといいながら飲む二人の姿は、娘も嬉しかったのではないでしょうか。


思い返すと会社員時代の僕は、平日は夜遅いし休日は出張しているし、単身赴任も長かったし、子供たちと本当に触れ合う時間がすくない父親でした。いまの基準ではとてもいい父親とはいえない人生。子供たちには申し訳ないという気持ちがいつもあります。

その日の朝、目が覚めてからそんなことを逡巡していたのですが、僕の父も僕ら子どもに対して本当に不器用だったことに思い当たりました。


父が生まれたのは中国の天津の日本租界。

曽祖父の代に知人の借金の保証人になって負債を負い、熊本の城下町の中心部から城代上町という農村に引っ込んだのですが、そのような境遇から抜け出そうと一念発起して東京に出て早稲田に学び大陸に渡ったのが祖父。

親戚筋に明治時代に京城日報社の社主を務めた人がいたからか、祖父も天津で天津日報社の主筆兼社主におさまります。

そこに生まれたのが父。
祖父の方針で小学校を終えた父は熊本に内地留学しました。
父が通ったのは旧制熊本中学校(現在の熊本県立熊本高校)。
そこから第五高等学校へ。
成績優秀でその間に飛び級をしていますが、そういう血がその次男に全く受け継がれていないことに注意が必要です。
彼は第五高等学校から東京大学の文科1類に進んだのですが、志半ばで学徒出陣ということで早々に卒業させられます。

その間に祖父が亡くなりました。
祖父は主筆として活躍していたようなのですが、記事配信を受けていた通信社が国策会社へ合併させられたり外地のニュース情報を軍部が管理するようになったりしたことで仕事への情熱を失いました。
そうした中の他界と聞きました。
次の世紀になって孫の僕が国策会社に合併されたほうの通信社にあった広告部門のグループ会社で働くとは、歴史の神様の采配なのかご縁なのか。

学徒出陣した父は、外地(中国)出身ということで中国の陸軍部隊に配属されるのですが、学士だからといじめに遭い、「このままだと殴り殺されるばい」と主計(ロジスティクス担当)になるべく北京の経理学校へ逃れ、陸軍省管轄ではなく内務省管轄の主計少尉として現場に戻ります。

命令指揮系統が異なること、糧秣や被服、武装機材などの管理者となったことで、いじめに遭わなくなったどころか、部隊内でのポジションを獲得しました。
彼は幼少から中国語が、また中高で学んだ英語も堪能だったので、中国人の商人などを通じて敵方の戦局も把握していました。
もともと大学時代に外交官を目指していたこともあり、戦局とともに国際政治情勢も視野に入れていろいろ判断していたようです。
中国大陸戦線は大東亜戦争終盤にあっても局地戦はあるものの膠着状態。
しかし内地から送られてくる新兵の水筒が竹筒になったとき、日本の負けが見えたといいます。

そして敗戦。
現地から自宅へ帰らなくてはならないのですが、肝心の天津の家にはもう誰もいません。
父母は亡くなっており、姉も妹も内地に引き上げていました。
無人となった家にはすでに中国人が住み始めています。

日本に行くしかありません。


いまは静かな浦頭港。ここに父も上陸。130万人の引揚者がここに帰ってきました。

米軍差し向けの上陸用舟艇(LST)で佐世保の南の浦頭港(佐世保はここが引揚船着岸地でした)に到着。
上陸するなりDDTを吹きかけられ陸路を歩いて現在のハウステンボスのあたりにあった佐世保引揚援護局へ。

そこで2、3泊したあと南風崎駅から出身地に戻るのですが、彼はここで土地勘が多少ともある熊本へ行こうと決めて汽車に乗り込みました。


父はこのホームから汽車に乗りました

援護局で支給された幾らかの金も遠方に帰る部隊の仲間に渡してしまったので、ほとんど無一文で熊本駅に降り立ちました。
そこから父の新たな人生が始まります。

熊本に戻った父。最初は働き口探しから。幸い天津時代の知己の世話になり地元の新聞社に記者として就職することができました。

1度目の結婚で姉二人と兄が、2度目の結婚で僕が生まれました。


ここまで縷々父の若い頃の人生を書いてきたのですが、
読んでお分かりいただけたでしょうか。
父は
「多感な時期に自分の両親、とくに父親と過ごした時間がほぼなかった」
のです。

僕ら子どもに対するとき不器用だったことを今となって思い返しますが、それは父自身がその父との親子関係を自分が多感な時期に体験していなかったからのような気がします。


僕が幼稚園に上がる前。
年末に家に現金がなく、頂き物の商品券で野菜を買うために母とデパートまで行ったことがあります。
交通費を払うお金もないので往復とも30分ほどの歩きです。
白川を渡る100mほどの橋の上は北風がきつく、そこを「寒か 寒か 寒か」と口ずさみながらながら歩きました。
当時住んでいたのは二軒長屋。貧しい人びとが肩を寄せ合うようにして住んでいた地域でした。

小学校に上がる頃に台地の上にある借地に建った中古一戸建てを購入し転居。
それでも生活にゆとりはなく、父は深夜まで残業や飲み会、母は保険の仕事を得てお昼は不在。
当時流行りの「鍵っ子」というやつになりました。

家には兄姉のために買われた講談社の『少年少女世界文学全集』がありました。
僕は学校から帰ってそれを読むのが楽しみで。
そうしてやたら本ばかり読んでいる子供が仕上がったのですが、ある日父が気付きました。
「こいつ、球技がまるでできない」。


ある日曜日。
父の発案で、家の前で「キャッチボールをやろう」ということになりました。
僕は兄のグローブを借り、父は手に兵児帯を巻いてボールを投げ合います。僕が投げるボールはまったく的外れの方向へ飛んでいきます。
まっすぐ投げているつもりなんですけどね。
30分ほども投げ合いましたでしょうか、多分父は「コレは無理だ」と思ったのでしょう。
そのあと父は二度とキャッチボールやろうとは言わなくなりました。
いまでも紺の和服姿で兵児帯を手に巻いた父が僕にボールを投げる姿を思い出します。
父も勉強ばかりの青春でしたからさして上手くはないのです。
午後の光の中で父の後ろに植っていたシュロの木がザワザワと揺れていました。


科学戦隊のような被り物を被っているアホ丸出しの僕と姉二人と父母


小学校何年生の頃だか忘れましたが、夏休みの宿題に力を貸してくれたことがありました。
当時の僕は読書感想文といえば、本のあらすじを引き写して終わり。
そんな文章を見てしまったのだと思います。
「こいつは、自分の考えをまとめるということがまるでできない」と気づいたのでしょう。
熊本の街を調べるというテーマが決まりました。
(たぶん父が決めました)

くっそ暑い夏の熊本の街。
新町という名の古い街から歩き始めます。

高麗門という場所があります。
すでに門自体は失われているのですが、加藤清正が朝鮮出兵から帰ってきて造った門とされ、細川氏の治世下でも立派な城門が維持されたところです。
石碑の碑文を読み、周りを眺めます。
普通の仕舞屋(しもたや)風の町屋が並んでいるだけ。

いま見るととても懐かしい熊本の新町の風情

そのあたりから明治期の風情が残る熊本のオールドタウンを過ぎ、最後は白川沿いにある東京でいう鈴ヶ森にあたる江戸時代の熊本藩の刑場跡まで歩きました。

父は熊本生まれではない分、熊本の姿を遡ってよく見ていたのだと思います。
それを伝えようとしたようですが、それはともかく、この研究発表を広用紙に書いていくなかで、僕は調べたものを自分なりに見解を入れつつまとめるということを初めて知りました。

この経験は今のしごとに大きくつながっています。


自分の子供のアホなところに気づくたびに、父は膝カックンされたような脱力感に見舞われたことと思います。
そのあとも彼の次男は高校時代に酒飲んで謹慎食らったり、口ばかりデカくて一浪したり、さらに一留したり、繰り返し膝カックンばっかりしていた息子で。
もう、ほんとうに、まことに申し訳ない。
天に向かってか、仏壇に向かって深くこうべを垂れるしかありません。
でも。
そんな子育てが何もかも初めての経験だった父から育てられた息子が、僕なんですよ。


今年の父の日の前日、土曜日の午後に娘と話していて、娘のメガネのツルの部分が壊れかけていることがわかりました。
眼鏡屋に連れてってくれと言います。
「なら、来週一緒に買いに行こうか」
と答えたものの、メガネならすぐに変えたほうがいいかもしれません
「いや、明日午前中行こうか」
すぐにそう言い直しました。
日曜の昼には熊本に戻って仕事部屋を整理しなくてはなりません。少し忙しくなるけどいいか。

娘がそう言ってくるときにはなんか話したいことがあるのか、金払ってほしいとか、とにかくメガネを切り替えるきっかけがほしいとか、何かなのだと思いました。
そして「明日の午前中行こう」ということに。

父の日の朝。
我が家の休日の朝は結婚いらいスパゲティから始まるのですが、この日は妻お得意のウニスパ。
もともとは二人でよく行っていた西武池袋線江古田駅北側の「まほうつかいのでし」というスパゲティ屋さんのメニューを真似てみたもの。

お腹も満足した午前10時半。
娘と二人で郊外のショッピングモールへでかけました。
娘が高校生のころ初めてメガネを買ったお店。
それからもう7年くらい経っています。物持ちのいい娘です。
30分くらいかけてフレームを選んで、30分ほど待って検眼して。

これまでは上下幅が狭いスンとしたフレームだったのですが、新たに選んだフレームはウェリントン型の親しみやすいもの。
娘の笑顔によく似合っています。

いざお会計。
クレジットカード忘れてきてないよなとお店についてから2回くらい自分のバッグの中を確認してたんですが、
呼ばれたら娘がスッと立ってカウンターへ行き、自分のクレジットカードで支払いを済ませようとしています。


父に頼らず、自分で払っている娘を僕は座ったまま少し眩しく見てました。
子供が庇護する立場から卒業していく。
そういう立場の父になったんだなと。

今年の父の日は少し感慨のある日曜日となりました。


※トップの画像は娘の作品。
 額に入れて熊本の執務室に飾っています。

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