労務監査をやってみませんか?
「労務関連の帳簿や記録はどうやって管理すればいいの?」「残業代の計算が間違っていた...」「就業規則は昔作ったものがあるが、今も有効なのか?」「育児・介護休業法って何をすればいいの?」「従業員は我が社で働き甲斐を持って働いているのだろうか…」「賃金決定の仕組みはこのままでいいのだろうか...」
中小企業の経営者の皆様で、こうした人事労務の悩みを持っている人は多いのではないでしょうか? 日々の業務に追われる中、法改正への対応や職場環境の整備まではなかなか手が回らない、ということもあるでしょう。
実は、多くの中小企業が抱えるこうした課題に対して、的確な評価をし、効果的な対応策を提供するツールとなるのが「労務監査」です。労務監査は、会社の人事・労務管理の健康診断のようなものといえます。
「労務監査」と言いましたが、似たような意味で、労務コンプライアンス監査とか経営労務監査、あるいは労務診断、コンプライアンス調査、法令遵守状況審査などという言葉を聞いたこともあるかもしれません。
「労務監査」には、会計監査や内部統制監査に見られるように広く一般に認められた標準的な評価基準やプロセスがあるというものではありません。対象とする範囲も労務、人事、組織を広くとらえたものから、労働社会保険の法令順守状況に限定したものまで様々です。
今回は、関連する定義や基準などを簡単に整理し、その後で、中小企業の立場での労務監査の有用性と、様々な対象範囲・基準・プロセス等がある中で、何を優先して実施していくべきなのか、ということを考えてみましょう。
社会保険労務士(会)の視点から
社会保険労務士会のセミナー資料に定義がありましたので引用します。
まず、「経営労務診断」というのがあります。
つまり、単なる労務コンプライアンス監査にとどまらず、経営的視点からの人事・労務管理の診断も行うということです。
これに関しては、全国社会保険労務士会連合会が取り決めた経営労務診断基準に従って社労士が診断を実施した企業を認証する「社労士診断認証制度」というものがあります。
「経営労務監査」というのもあります。
簡潔な定義ですが、経営労務監査の方が格段に広範・高度なものであることが一読してわかります。
経営労務監査がカバーする範囲としては、①労務コンプライアンス監査、②人材ポートフォリオ監査、③従業員意識調査、の3つから構成されるとしています。
また、若干違う文脈ですが、国や地方自治体の依頼を受けて公共事業等を請け負う企業の雇用・労働分野の法令遵守状況や職場環境の状況を社労士が確認する業務を「労働条件審査」と呼称しています。
厚生労働省の労務管理に関する各種ガイドライン等
労務コンプライアンスということでは、労働社会保険諸法令の執行・監督の官庁である厚生労働省が労務管理に関する各種のガイドライン、手引き、チェックリスト、雛形を公表しています。監督する立場の官庁が公表している資料なので、労務コンプライアンスという観点では「正解」集とも言えるでしょう。
その他のフレームワーク等
近年、経営における人的資本が注目されています。人的資本とは、従業員が持つ能力を「資本」として捉える考え方であり、「資本」なので企業価値向上のために計画的に投資していくことが求められる対象となります。
人的資本に関しては、「ISO 30414(人的資本に関する情報開示のガイドライン)」や、政府が公表した「人的資本経営可視化指針」といった文書があります。
人事・労務の分野も企業経営の重要な部分なので「COSO(Committee of Sponsoring Organizations of the Treadway Commission)の内部統制フレームワーク」や、「内部統制報告制度(J-SOX)」にも、人事・労務関連の業務プロセスの評価に関連する部分があります。
労務監査について考えましょう
さて、以下では一般的な呼称である「労務監査」を使用します。なぜ「労務コンプライアンス」や「経営労務」ではないのか、なぜ「診断」、「審査」あるいは「調査」ではないのか、という疑問があるかもしれませんが、この記事の筆者はそれほど厳密に使い分けていない、ということでご了解下さい。
個人的には、経営者が自主的に実施する場合(それを推奨します)、「監査」ではなく「診断」(労務コンプライアンス診断、あるいは経営労務診断など)がしっくりきます。なお、労働基準監督署など行政がその権限を行使して調べることは「行政調査」といいます。
労務監査の有用性
では、あらためて中小企業にとっての労務監査とは何か、その対象範囲、実施主体、タイミング、目的を整理してみましょう。
極めてシンプルに言えば、中小企業にとって有用な労務監査とは、「会社の人事・労務管理が法令や社内規程に準拠しているかを確認し、問題点を洗い出すとともに改善策を提案するプロセス」ということができるでしょう。改善策を提案する、ということが含まれるのがポイントです。改善策を得ることが目的なので実施主体はその会社の経営者となります。例えば、M&A交渉時に行われる人事・労務Due Diligenceの内容は監査そのものですが、主目的はターゲット会社の評価にあり、改善策までは不要、実施主体は買収予定者なので、以下の記事の対象外となります。
労務監査は会社の任意により実施するものですが、これにより、法令遵守(労働社会保険諸法令コンプライアンス)の徹底、労務リスクの低減、職場環境の整備・改善を図ることができます。これが労務監査の目的のベースラインです。
そして、そうした整備・改善された職場環境をベースに会社の理念や行動指針、経営方針に沿った人事制度・施策を整備し、継続的に改善することにより、従業員満足度の向上と組織力の強化を図ることができます。この観点から、現在の人事・労務制度や施策の整備、それらの運用状況を評価することが労務監査の次の目的です。
さらには、人材ポートフォリオ分析や人的資本可視化、従業員エンゲージメント調査などもありますが、これらはある程度以上の規模の会社または上場企業を念頭において考えるのがふさわしいのではないかと思います。
労務監査はいつ実施すべきか
労務監査をいつ実施するのか、というタイミングの観点から分類してみます。なお、以下の各労務監査に付けた名称は特徴をわかりやすくするために付けたものであって、必ずしも一般的な呼称ではないことに留意願います。
(1)労務コンプライアンス診断
・ タイミング:会社の労務管理の現状を知りたいとき、新法令施行前、社内規程改定前
・目的:法令遵守状況の確認、新法令対応のための施策の明確化、社内規程改定時の関連規程の調査
(2)定期労務監査
・タイミング:年1回もしくは半年に1回
・目的:現状確認と改善施策の策定、改善施策の進捗チェック、問題の早期発見と改善のためのアクションプラン作成
(3)経営労務監査
・ タイミング:経営戦略の見直し時、中期経営計画策定時
・目的:経営戦略と人事制度との整合性の確認、中期的な人事制度の改定方針や人事戦略の策定
(4)特別労務監査
・タイミング:行政機関による調査の前、合併・買収時、労働問題発生時(おそれのある場合)
・目的:行政機関の調査実施が決まった場合の事前対応、合併・買収交渉時の交渉相手方による人事労務調査(Due Diligence)に備えた事前対応、労働問題発生時(おそれのある場合)の問題の根本原因の特定
(5)組織運営診断
・タイミング:大規模な組織改編時、従業員満足度・エンゲージメント低下時(おそれのある場合)
・目的:組織力の強化と従業員エンゲージメント向上のための経営施策の検討
具体的な事案と労務監査の関係
労務監査は様々な企業活動や行政対応と密接に関連しています。以下にいくつか、中小企業で起こりえる具体的な事案と労務監査の関係の例を示します。
■ 就業規則を見直したいとき
「うちの就業規則、作ってから10年以上経っているな...」
休暇制度や労働時間制度が実態と合わなくなってきた、そんな悩みをお持ちの経営者は少なくありません。労務監査では、現在の雇用管理の実態と就業規則やその他の重要規程との整合性を確認し、会社の経営方針や将来計画も踏まえた実効性のある就業規則の整備をサポートします。
■ 残業代の計算が気になるとき
「残業代の計算、本当にあっているのかな...」
残業代の計算は意外と複雑です。割増賃金の計算方法や、管理職の範囲、みなし労働時間制の運用など、チェックすべきポイントは多岐にわたります。労務監査により、現在の労働時間管理や賃金計算の仕組みを総点検し、必要な是正措置を講じることができます。
■ パワハラ・セクハラの予防対策を考えるとき
「ハラスメント対策って何をすればいいんだろう...」
企業にはハラスメント対策が義務付けられています。労務監査では、社内規程の整備状況や相談窓口の設置・運用状況を確認し、実効性のある防止体制の構築をサポートします。
■ 助成金の活用を検討するとき
「助成金を申請したいけど、要件を満たしているか不安...」
労務監査により、助成金の受給要件との適合性を詳しくチェックすることができます。さらに、中長期的な視点から、どの助成金制度を活用すれば効果的な人材育成や職場環境の改善につながるのか、具体的な道筋を示すことができます。
また、えるぼし認定等の厚生労働省所管の各種認定の取得を検討する際にも、労務監査により、要件と適合性のチェック、取得のために会社がすべきことを把握することができます。
■ 行政調査への対応に備えるとき
「労働基準監督署や年金事務所からの調査通知が届いた…」
何を準備すればいいの、もし問題が見つかったらどうしよう、という不安は当然です。事前に労務監査を実施して法令遵守状況を確認し、必要な是正措置を講じておくことで、突然の行政調査にも万全な準備を持って対応することができます。
■ 従業員の退職が増えてきたとき
「最近、若手社員の退職が続いているけど...」
従業員の定着率低下は、職場環境や人事制度に何らかの課題があるサインかもしれません。労務監査では、賃金制度や評価制度の適切性、労働時間管理の状況、職場のコミュニケーションの実態などを総合的に確認し、改善すべきポイントを明らかにします。
専門家のサポート
簡易的な労務監査項目リストはネット検索で入手可能なものもあります。それらを使ってセルフチェックすることも可能かもしれませんが、ただでさえ多忙な経営者の方が自ら行うのは現実的な選択とはいえません。やはり、社会保険労務士のような労務社会保険諸法令や人事・労務施策に関する専門家と連携して行うべきでしょう。
専門家の支援を受けることにより、次のようなことが期待できます。
◆ 専門知識に基づく的確な問題把握と解決策の提示
◆ 外部の目による客観的な評価と新たな視点の獲得
◆ 法令遵守による労務リスク低減と企業イメージの向上
◆ 従業員満足度の向上による人材確保・定着の促進
◆ 経営方針に沿った効果的な人事・労務施策の策定・実施
最後に ー 労務監査から始める良い職場環境づくり
労務監査は単なる法令遵守のツールではなく、会社経営を支える重要な要素であり、従業員の満足度向上や生産性の向上にもつながる重要な取り組みです。
しかし、一度にすべてを完璧にする必要はありません。小さな一歩から始めて、着実に改善を積み重ねていくことが大切です。
就業規則、残業時間データ、休暇取得状況、新法令対応などで、気になっていることはありませんか? まずは気になることをメモし、専門家に相談してみることをお勧めします。
労務監査の実施を検討してみようと思った方は、ぜひ社会保険労務士にご相談ください。