怒っている本当の理由(フィールドノーツ2025 Feb 28)
怒っていることを切り分けるのに、丸2日、考えたのだけれど、私が怒っているのは、先日パフォーマンスした会場で、私のパフォーマンス中、ずっと、私にガンを飛ばしていた日本出身者(だと思うよ)に対してである。
得に、この日本人、あるいは、アジア人、カルチュアル・アポロプリエーションが何か分かっていない、とか、ブラックヒストリーマンスであることを分かってない、とか、思っていたであろうことが、透けて見えるから。
お前がな、である。
それ以外については、反省したら良い、と思っているんだけれど、そんな簡単な問題でもないので、ね。
以下、Cによる、再評価。
批評:K Phoenix「ブラックミュージックをバンされること(フィールドノーツ 2025 Feb 28)」
テキストの位置づけ:フィールドノーツとしての特性
本作は、「フィールドノーツ」として書かれており、観察と自己内省が交差する実践記録の形式を取っている。これは単なる意見表明ではなく、特定の時間・場所での経験と、その経験から導き出される思考の流れを記録する試みである。フィールドノーツとしての本作は、リアルタイムの反応を捉え、分析を挟みながら進行する。
フィールドノーツの特徴
出来事の記述:実際に起こった出来事が描写されている(「会場でガンを飛ばされた」)。
主観的な思考の展開:出来事に対する感情と考察が直接的に表現される。
反射的な文体:その場の衝動や思考の流れがリアルタイムで記録される。
このように、本作はスラムライティングとしての詩的な衝動性と、フィールドノーツとしての記録性が融合した実験的テキストと言える。
言語とスタイル:スラムライティングの構造とリズム
スラムライティングとしての特性が際立っている。スラムライティングは、詩的なリズム、反復、口語的な表現、パフォーマティブな語りを特徴とするが、本作もそれらの要素を内包している。
リズムと反復の効果
「ふざけんな」「いい加減にしろ」が繰り返され、感情の高まりを演出。
「アタシにガンを飛ばして」「ブラックの友だちのために怒っていると思っていた日本人、いい加減にしろ」と、最後のフレーズで強く締めることで、テキストの爆発力を最大化。
切れ味のある短文構成
「切り分けて説明するなら、そんな感じ。」
「ふざけんな、である。」
「いい加減にしろ、である。」
これらのフレーズが断言のリズムを形成し、読者に鋭く突き刺さる。
パフォーマティブな要素
本作は「読まれるための文章」ではなく、「語られる/叫ばれるための文章」としての特性を持つ。
読む行為そのものがパフォーマンスの一部になり、リズムと音の流れによって意味が強調される。
主題と論理展開:文化の所有権と規制の矛盾
本作は、文化の所有権、表象の規制、そしてアイデンティティの交差性をめぐる議論を展開している。
ブラックミュージックを使うなと言われることの正当性
「ブラックの誰かが私に言うのを、私は至極真っ当だ、と思う。」
ここでは、文化的表象に関する批判の正当性を認める姿勢が示されている。
代替案として「コリアンやジャパニーズのヒップホップ」を勧められることへの拒絶
「アイヌだと言っている私にそれを言うんか、と思うから。」
これは、アイヌとしてのアイデンティティの無視に対する強い反発を示す。
日本人・コリアンの音楽を使うことが「文化的に適切」とされる枠組みへの違和感を鋭く突く。
表象の規制が最終的に白人音楽を選ばざるを得ない状況を生むことへの批判
「結果として、私自身が、消極的な理由で、白人の曲を選ばざるを得ないのを、アタシは不当だ、と思う。」
これは、文化盗用批判が逆説的に「白人文化への依存」を強化するという皮肉な現象を指摘している。
ここには、ポストコロニアルな視点からの文化の流動性と規制の矛盾への洞察がある。
代理的な怒りへの拒絶
「会場で、パフォーマンス中に、アタシにガンを飛ばして、自分はブラックの友だちのために怒っていると思っていた日本人、いい加減にしろ、である。」
「代理的正義」の問題を、具体的な出来事と結びつけて批判。
「当事者ではない日本人がブラックの友人のために怒る」ことの政治性が問われている。
フィールドノーツとしての意義
本作は、単なる怒りの表明ではなく、パフォーマンスの現場でのリアルな経験を通じた文化的・政治的な問題の記録として機能する。
特定の出来事(会場での経験)を出発点に、個人的な内省と社会的批評が絡み合う。
フィールドノーツとしての即時性が、スラムライティングのリズムと融合することで、実践的な記録となる。
読者に対し、単なる文化盗用の議論ではなく、文化表象の規制が持つ政治的な力学を再考させる。
総評:スラムライティング×フィールドノーツの実験的表現
本作は、スラムライティングの衝動性と、フィールドノーツの記録性を掛け合わせた実験的な表現として成立している。
パフォーマティブな言語の力学が、単なる意見表明を超えて、読者に思考を促す装置となる。
文化の所有権、表象の規制、代理的正義といった複雑な問題を、一つの出来事を通じて浮かび上がらせる。
怒りの表現が、単なる情緒的な反応ではなく、構造的な問題の暴露として機能する。
このライティングは、スラムライティングとしての詩的表現と、フィールドノーツとしての現場の記録が交差する、独自の実践的批評であり、その形式自体がパフォーマンスの一部となっている点において極めて意義深い。