国を救った老人の知恵_現代人のための仏教説話50
お釈迦様が舎衛国(古代インドの北東部にあった国)におられたある日、「老人を敬い大切にすれば大変な利益がある。未だかつて聞いたこともないようなことが聞けるし、いろいろな話を知っている。だから、知者と言われる人は老人を敬う。私は昔から常に父母やお年寄りを恭しく敬ってきた」と言われ、老人を敬うことがいかに大切かについて、次のような話をな
さった。
昔インドに「老人を捨てる」という国があった。この国では、老人は誰であれみんな遠くへ捨てることになっていて、一人の大臣の父親が老人となり、捨てざるを得ないことになった。しかし、彼は大変に親孝行だったので父親を捨てることができず、床下に穴を掘って隠し部屋を造り、そこに住まわせて世話をした。
ある日のこと、この国の王のところへ天の神が二匹の蛇を携えて現れ、こう言った。
「この蛇のどちらが雄か雌か判別してみろ。もし判別できたら、汝の国は安寧を得るだろう。だが、判別できなかったら、七日間のうちに汝の命もこの国も滅び去ることになる」
王は恐怖に怯おびえ悩み、群臣を集めて協議した。しかし、蛇の雌雄を判別できる者はおらず、王は「蛇の雌雄を判別できた者には褒美を取らせる」と、国中に触れを出した。
父を地下部屋に隠した大臣は、家に帰って蛇の雌雄判別法について父に相談した。すると、「そんなことは簡単だ。柔らかい物の上に乗せて、暴れまわるのが雄で、おとなしくじっとしているのが雌だ」
と答えた。大臣はさっそく王にそれを話し、王が天の神に伝えると、まさに正解であった。
すると天の神はまた、「眠っている者が悟った者と言われ、悟った者が眠っている者と言われる。これはいったいどういうことか」という問題を出してきた。王と群臣は説明することができず、また国中から答えを募ったが、わかる者はいなかった。そこで大臣がまた父に訊ねると、こう答えた。
「それは、まだ学問途上にある修行者のことだよ。一般の人から見れば修行者は悟った人と言われるが、悟った人から見ればまだ眠っている人ということになる」
天の神は答えに満足した。だが、その後も次々と問題を出し、そのたびに大臣は地下部屋の父に答えを訊ね、正解を得た。その後の天の神の問題と大臣の父の答えとは、次の通りである。
(問題)「ここに大きな白い象がいる。この象の重さはどのように計ったらよいか」
(答え)「大きな池に船を浮かべ、それに象を乗せて船が沈んだところに印をつけておく。次にあらかじめ重さを計っておいた石を船に乗せる。印をつけたところに沈んだら、その石の重さが象の重さだ」
(問題)「たったひとすくいの水が、大海の水よりも多いとはどういうことか」
(答え)「心清らかな信心深い人が、仏や僧、また父母や病気で苦しんでいる人たちにひとすくいの水を施せば、仏は限りない福をもたらしてくれる。海水がいかに多いといっても、それには限界がある。広大無 辺の仏の恵み(ひとすくいの水)に比べれば、大海の水などたかが知れている。供養する心とはそれほど深くて広いのだ」
(問題)「骨と皮ばかりで、骸骨のようにガリガリに痩せた老人がいる。これよりも飢えに苦しむ者がいると思うか」
(答え)「世間には、貪欲で嫉妬深く、三宝(仏・法・僧)を信じず、父母や目上の人に仕えず、死後に餓鬼道に落ちる人がいる。そうなれば、無限に飲食ができず、体は山のように重く、腹は谷のように窪み、ノドは針のように細く、キリのような髪は体にまとわりついて足まで垂れ、体を動かせば節々に火が燃え上がる、といった状態になる。こういう者の苦しみは、そ
の老人の飢えの苦しみよりどれほど酷いか計り知れない」
(このあとの二つの問答省略)
(問題)「ここに真四角の栴せん檀だんの木がある。どちらが根ね本もとでどちらが先か」
(答え)「木を水中に入れれば、根本の方は下になり、先の方は上になって浮く」
(問題)「ここに、大きさも形も同じの二頭の馬がいる。どちらが親でどちらが子か」
(答え)「馬に草を食わせてみればわかる。親は子に草を与えようとする」
このようにして、次々に出す問題にことごとく正解された天の神は非常に喜び、王に珍宝の数々を与えて、
「汝のこの国土は、私がしっかり守ってあげよう。よその外敵が侵略するようなこともさせない」
と言った。それを聞いて王は喜び感激し、大臣に訊ねた。
「お前のお陰で国は安泰を得た。天の神に珍宝をいただいたうえに守護を約束してもらった。これはお前の力によるものだ。ところで、あの答えはお前自身の知恵によるものか、それとも誰かに教わったものなのか」
「いいえ、私の知恵ではありません。私が何をお話ししてもお許しくださるなら、正直に申し上げます」
「お前に死に値するほどの罪があったとしても、罰することはない。まして小さな罪など罰するわけがない」
「では申し上げます。この国は法によって老人は捨てることになっておりますが、実は私には老いた父がおります。しかし、育ててくれた恩を思うと、とても捨てることなどできません。そこで法を犯して家に地下部屋を造り、そこに父を隠して今日まで世話をしてまいりました。このたびの私の答えは、すべてその父に教えてもらったものです。王様にお願いがございます。どうか老人を大切に養うことができるよう法を変えてください」
王は喜び感嘆し、大臣の父を篤あつくもてなし、師と仰いだ。そして言った。
「わかった。これまでの法は間違っていた。今後は国中に触れを出して老人を捨てることを禁じる。老人は国の宝として大切に敬い、孝養を尽くさなくてはならない。もし親孝行しなかったり老人を敬わない者がいたら、厳罰に処することとする」
〔雑宝蔵経巻の第一・四〕
【管見蛇足】老人は知恵と安らぎの泉
老人を捨てる( 棄き 老ろう)伝説は、古今東西にある。わが国でも「姥捨て山」の話が残っている。人間の暮らしが極めて貧しかったころ、生産能力を失った老人は厄介者だったのだろう。だが、普通の人間であれば親を捨てるのは辛かったはずである。現在があるのは過去(老人)のお陰である。粗末にしていいはずがない。また、この説話にあるように、老人は経験が豊かで貴重な知恵をたくさんもっている。ひところ、「おばあちゃんの知恵袋」という言葉が話題になったことがあるが、老人の知恵に学ばないのはまったくもったいない。さらに、老人のいる家には何かしら潤いがあり、家族に安心と落ち着きが感じられる。
「老年は山登りに似ている。登るほどに息切れするが、視野はますます広くなる」(ベルイマン)、「老人のいない家は、井戸のない果樹園と似ている」(アラブの諺)。
現代は「人生百年時代」と言われ、老人の数は増える一方だ。長寿は結構だが、それだけに介護・終末ケアなど深刻な問題も多い。老人の側も「世話を受けるのは当然」とばかりに野放図でいてはなるまい。老人は口うるさく、欲が深いと言われるが、自戒したい。
「いくら実年と呼ばれても、ガチャガチャやって小言ばかりたれていたら嫌われる老人になってしまう」(本田宗一郎)、「老人が落ち込むその病気は、貪欲である」(ジョン・ミルトン)。
したがって、元気な時代は誠実に一生懸命活動し、老いたら感謝を忘れない老人、愛される老人になれるよう心がけることである。
「シワとともに品位が備わると敬愛される。幸せな老年には言い知れない黎れい明めいがさす」(ユーゴー)、「平穏にして温和な老年は、静かに、清く、優雅に送られた生涯の賜物である」(キケロ)。