海に“くじら”は見えるかい? ~見たことない“くじら”が見れる絵本「くじらだ!」~
くじらを“誰もが”見て、「あれはくじらだ!」と叫べるようになったのは、いつ頃なのだろう?
「なんだこのかっこつけた文章は」と思われたかもしれない。
欲を言えば、この文章を読みつつ、潮風に吹かれながら、うれいた顔で岩に座っている感じを想像するのがベストだ。
話がそれた。
くじらを見てなぜ「くじらだ!」と叫べるのか、という話だった。
それは「知らないものに名前をつけたい」「つけた名前を広めたい」という人間の欲が、くじらを「くじら」と呼ばせるのだ。
誰がくじらを「くじら」と名付けたかも、誰がどうやってくじらは「くじらだよ☆」と知らない人に教えたかも知らないわたしでも、くじらは「くじら」と知っている。
不思議だ。
くじらがくじらじゃないけどくじらな絵本
というわけで、だいたいの人は本物の「くじら」を見たことがなくても、くじらが何なのかは知っている。
だから絵本「くじらだ!」というタイトルを見ただけで、
「これは、くじらを見てくじらだ!って叫ぶ絵本なんでしょ」
と想像する。
その想像は、半分正解と言えなくもないというくらいの正解だ。
この絵本の中の人々は、なんと始めはくじらを知らない。
というか話が進んでも、くじらを知らない人の方が多い。
しかし知らなくても聞いた話だけで、人々はくじらを見つけようと画策する。
なぜなら、この絵本の中でくじらは、人々の利益を生む存在だからだ。
くじらが人々、というか「自分」にとって利益を生むもの、と知ってからは、それこそ目を血走らせるかのように、絵本の中の人々はくじらを四六時中、探していく。
けれど、どこにもくじらはいない。
その姿はまるで
「しあわせ!しあわせ!しあわせ!」
と叫びながら、しあわせを探しているように思えてきて、ちょっと眉毛がしょんぼりしてくる。
だけどくじらは探しても見つからない。
どこにもいない。
なぜならくじらは見つけるものではなく、“もうそこに在るもの”であり、“もうそこに在るくじら”に気づくことそのものだったからだ。
この絵本のくじらは、損得目線では絶対に見つけられない、くじらなのだ。
安心してください、“くじら”でてきますんで。
だが安心してほしい。
この絵本にくじらは出てこないが、“くじら”は登場する。
それも、ものすごく大納得の“くじら”が、である。
おっと、「はやく、くじらが見たい!」といって、最後から開くのはオススメしない。
登場する人々と一緒に、くじらを探し続けたからこそ、最後のページを開いてみつけた“くじら”に、心震えるのだ。
心、震える、のだ。
ここ大事。
テストに出ます(出ません)。
テストじゃないときには、くじらの見えない海に向かって「くじらだ!」と叫んだって・・・いいよね(ちょっと弱気)
誰かが見つけ、名前を付けたくじらを指して、「くじらだ!」と叫ぶことも、テストのときには必要なのだろう。
でも、テストじゃないときには、くじらを見て「イルカだ!」と叫んだり、海をみて「山だ!」と叫ぶくらいの、叫んだあとまわりを見たら、友人が5mくらい離れていたくらいのギャグを、堂々と叫んだっていいじゃない。
いいじゃないか。
それくらいのオヤジギャグは許して欲しい。テストじゃないんだから。
点を稼ごうとしたり、利益を追い求めたり、得かどうかで動いたり。
そんな行動が必要なときも、人生には確かにあるのだろうけれども、そればかりじゃあ生きられない。
人生には、オヤジギャグが必要なときがあるのだ。
(なんかちょっとズレた)
自分の中にある“くじら”を叫ぶ、そのために海はあるのだ。
この絵本を読んでから海へ行くと、くじらはいないのに毎回、「くじらだ!」と叫びたくなる自分がいる。
自分の目に見えるものだけが、在るとは限らない。
自分の利益にならないから、それは要らないもの、と言いきっていいのか。
それは“いらないもの”と言いきっていいのか。
そんなことを考えて、頭と心がぐるぐるまわって眠れないときが、誰しもある(ハズ)
そんなときには、100人が100人とも「くじらなんていないじゃん」という海に向かって、
「くじらだーーーーーーー!!!」と
(どうしても恥ずかしさが拭えないときは心の中で)叫ぼうじゃないか。
えっ、叫べるような海がない??
↓ほらここにあるじゃない。
めっちゃ青いな!海!
波がザザン!って感じだな!
(サザンじゃなくてザザンね効果音)
ほら、誰の目にも見えなくても、“海”が見えてきた。
自分だけの、ぷらいべいと☆びぃちが見えてきたきた(ひゃっほーい)
夜でも海が見えてきた。
空に海が見えてきた。
道路に海が見えてきた。
(ただしそれが走馬灯だと感じたら多分相当ヤバイので、叫ぶより受診を優先しよう!)
その“海”には、誰の目に見えなくとも、わたしの心の目にはそこに“くじら”がいるのだ。
なんの利益も生まなくたって、そこにはくじらがいていいのだ。
しあわせってナンダロウとか
友だちって100人作らなきゃいけないのかなとか
ひとりだって楽しいのになとか
カラオケ行きたい!とか
とにかくいろんなモノが入り混じった心の声を、思いっきり叫んだっていいじゃない。
だって海だもん。
(ただし、人を愚弄する言葉は、そのうち自分に跳ね返ってきちゃうので注意)
だから、くじらの姿なんてまったく見えない海に向かって「くじらだ!」とマジで叫んでいる人を見かけたら、
「あの人はきっと絵本『くじらだ!』を読んだことがあるんだ・・・!」
と、自分の頬をふにゃっとさせながら、ほくほくした気持ちでそっと見守ってほしい。ありがとう。
それ多分、恥ずかしさとか世間体とか活きるってなにとか、とにかくいろいろふっきったであろう、わたし・・・かもしれないから。よろしくである。