「感謝が足りない!」と人に怒っている人は、自分が人に感謝が足りないことに気づいていない哀しい人である。
必然と偶然はまったくの別物。けれど“究極につきつめた”必然と、“究極につきつめた”偶然は、結局おなじものなんだ。
「報われたい」と見返りを願ってしまった時点で、好きなことは好きなことではなくなってしまう、かもしれない。
くじらを“誰もが”見て、「あれはくじらだ!」と叫べるようになったのは、いつ頃なのだろう? 「なんだこのかっこつけた文章は」と思われたかもしれない。 欲を言えば、この文章を読みつつ、潮風に吹かれながら、うれいた顔で岩に座っている感じを想像するのがベストだ。 話がそれた。 くじらを見てなぜ「くじらだ!」と叫べるのか、という話だった。 それは「知らないものに名前をつけたい」「つけた名前を広めたい」という人間の欲が、くじらを「くじら」と呼ばせるのだ。 誰がくじらを「くじら
まずはこちらの写真をご覧いただきたい。 2021年のわたし(向かって左)と、 2020年のわたし(向かって右)。 下手をしたらおなじ人に見えないかもそれないが、おなじ人である。 その事実を全力で保証しよう。 この2つの写真の間に、わたしが行動したことは2つ。 その1 コーデ自撮写真を、雨の日も風の日も晴れの日もうまく撮れない日も、とにかく1日1回全身自撮りする。 (余裕が出てきたので、途中からInstagram投稿も始めた。) その2 購入アイテムは3つまで か
どんな夢でも信じているだけでは、叶わない夢で終わる。夢を信じて「動く」ことではじめて、夢叶う可能性が出てくるのだ。
「嫁」になったつもりも、「嫁にもらわれた」つもりもなかった。わたしはモノじゃないと、何度も叫んだ。その声は、今でも君に届かない。
守ってくれなくていい。そんな強い人でなくていい。ただ、横に並んで手をつなぎ、一緒の方を向いて歩ければ、ただそれだけで。
眠れない夜。日記をやめて「うれしかったことを3つ書くノート」を突然始めた。出来事はなにひとつ変わらないのに、しあわせな自分でいられた。
とにかくどんどんやってみる。合うか合わないか考えるのは、後でいい。合わないものをそぎ落として、最後に残ったものこそ自分だけの本当の宝。
じっくり図書館も のんびり本屋さんも まったり服めぐりも いまのうち いまのうち。 だってもうすぐやってくる 夏休みがやってくる。 子どもはやすみで大はしゃぎ 母は3倍いそがしい あの夏休みが やってくる。 やすみがなくちゃ 生きられない 子どももオトナも おなじだね お母さんも おなじだね だから 自分だけのじっくりも 自分だけののんびりも 自分だけのまったりも いまのうち いまのう
気持ちの出口がないなら、自分で心に出口を掘ればいい。 ただし、気にすることがただ1つ。それは出口の先に「人」や「モノ」がいないかどうか。
お金も貯まるがイライラも溜まるのがケチ。お金も貯まり自分も他人も笑顔になれるのがエコ。さあどちらの道を行く?
子がオトナになってからも「こうしないからお前はダメなんだ」と言い続ける親からは離れよう。それがほんとうの親孝行。
できないことを数える人生と、できることを数える人生。さあどちらの道を選ぶ?
100円「しか」ないと思う人生と、100円「も」あると思う人生。さあどちらの道を選ぶ?