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本の虫は干からびて

 子どもの頃から、本を読むことは好きだ。

 理由はいくつかあると思うが、決定的なひとつをもし挙げるのであれば、それはひとりで思索に耽ることができるから、というものだと思う。人と話していて、閃きを得ることもあるし、なるほどと感服してしばらく余韻の中でさらにまた学ぶこともある。しかし、本を読むときは、そんな対話が自分の頭の中で行われる。だから自分の好きなペースでそれを味わったり、ちょっと反論してみたりして、ひとりで楽しむことができるわけで、そういう時間こそが、本当は好きなのかもしれない。

 正確には、読むものは「本」でなくてもよかった。ただ活字を読むのが好きだったと言った方がいいかもしれない。 
 幼い頃から、ひとりでおとなしく文字を追うことは得意だった。漢字や文章が難しいとか、そういうことは全然気にならなかった。実際、読めなくてもたくさん読んだ。そのうち読み方や意味を覚えたし、とにかく、読めないからといって読みたくないにはならなかった。

 小学生の頃は、両親がそのあたりに置いておいた文庫本や、新聞の折込チラシまで、活字と見るや手当たり次第に読んでいた。スーパーのチラシだと文章があまりなくて面白くないのだが、よく読んでいたのは健康食品のチラシだった。これを飲んで元気になりました、という顔写真入りの経験談は、長い文章がたくさん書いてあるから読み応えがあり、見つけると必ず読んでいた。大人って血圧やめまいに悩んでいるんだな、と幼いながらに理解し、おかげで子どものくせに慢性的な病気の名前や症状にやたらと詳しくなった。

 

 しかし私が本を好きであるからといって、その読書体験がずっと喜びで満ち満ちていたわけではない。
 私の個人的な楽しみに、外からの介入があり、それでちょっと私のペースを狂わされたことがあるのだ。
 
 それは、父によるものであった。

 父は本を読んで人は学ぶのだ、と言った。大筋で同意する。
 しかし彼は一方で,こう考えていた。まだ幼い自分の娘が,本から得る知識のその方向性は親として自らが定める必要性がある、と。
  結論から言って、これは大きなお世話であった。

 もしかしたら、私が手当たり次第に何かを読んでいるのを知って、自分が吟味して選んだものを与えたいと思ったのかもしれない。ただ、私の興味や好みの方向性を、父はよくわかっていなかったし、読む対象はなんでもいいように見えたかもしれないけれど、何を読んで何を読まないかは、私は自分で選んでいたのだ。人に決めてもらおうなんて、実際思ってもいなかった。

 得られる知識の方向性など、本を手に取った時点ではそれを選んだ本人すら正しく認識できていないものなのだ。父の、あらかじめそれをどうにかしようという試みは、やはり予想通りに、うまくいかなかった。
  
 彼は休日に私を伴って書店へ行った。私は今でも書店は好きだし、本の匂いも好きだ。目に入る限り本が並び、様々な表紙が私に訴えかけてくる。興味のあるものを手に取り、わくわくと目次を開いてみたり、次はどれを読もうかと考えるのは好きだ。当時の私も、書店に入った時から心を躍らせていた。さぁなんでも好きなものを選びなさい、と言われていたら、どれほど喜んだことだろう。

 しかしながら父は自ら黙って文学書の棚から本を選び出し、私が選ぶ余地はそこになかった。私はただ、父の斜め後ろに立って、彼が本を数冊手に取るのをぼんやりと眺めていただけだった。書店で、あんなにテンションが上がらないまま過ごしたことは、後にも先にも、思い出す限りは、ない。

 まずもって好みについて言えば、当時まだ小学生だった私は、ぶんがく、というものへの興味は浅く、それよりも現実的な知識について文字を追いながら、へぇ!と頭の中で興奮する感覚に取りつかれていた。もちろん、文学と言われるものを手にしなかったわけではない。多くは古い時代設定の中でノスタルジックな風景を描き、それは幼い私にも郷愁というものを感じさせた。私にはやや大仰で古めかしく、気取っているように思える話し方をする登場人物たちは、自分が生まれる前の若かりし頃の祖父母を見ることができたらこんな感じだったのだろうか、というくらいの想像をかきたてることはあった。だから、まったく読む気にならない、というわけではなかったと思う。

 しかし、没頭して読むとなれば話は別である。

 父が選んだのは青年文学ともいえる数冊に分かれた長編小説だった。彼自身が学生時代に感銘を受けたものだったということは後で知った。
 厚さ3センチほどで、地味な色合いの表紙には絵も愛想もなにもなく、子どもが読むには文字も二段組みになっていて小さかった。もちろんルビもほとんどついていない。パラパラとめくっても、挿絵も出てこなかったし、文体も古いのが一目見てわかった。
 活字に飢えているといっていい私が、まったく読みたいという気分にはならなかったのだけど、父はといえば、分厚い本を数冊まとめて娘に買ってやったことに満足している様子で、子どもながらに気持ちの温度差というものを感じた。書店のロゴの入った紙袋を抱えていながら、私の気分は高揚せず、むしろ困惑しているような気分だったと記憶している。思えばこのとき初めて、人からこれを読め、と言われたのだった。
 
 たいして気乗りしなかったものの、読んだか、としつこく聞かれるので、私はしかたなくその本を読むことにした。あまり詳しく書くと、わかる人はすぐにわかってしまうだろうけれど、その長編小説は不遇な少年が様々な経験を経て強く生きていく姿を描いたもので、数冊にわたる小説の中で彼は少年から青年まで成長する。作品が発表されたのは戦前で、言葉遣いや場面設定も、当時の私にはただただ古かった。内容といえば、少年は客観的に見ても非常に理不尽な状況に置かれていて、端的にいえば大人が本気を出して子どもをいじめているような場面もあり、私はちっとも共感しなかったし、深く感じいるようなこともなかった。 
 
 父と私は生まれた時代が30年くらい違う。

 30年というのは、社会とその空気が変わるにはあまりに十分な時間だ。父の子ども時代のような子ども時代を私は過ごしていなかったし、それに主人公は少年である。父も自分自身が少年である時に、その小説に出会ったのでおそらくは共感したのだと思うけど、私は少女だったし、主人公にはまったく感情移入しなかった。
 とにかく読まなくては、また父に感想を聞かれた時に困るので、なんとかして3冊を読んだ。本当はまだ続きがあったようだけど、当時の私はもうそれで十分だった。しかし、どうやら読み終わったらしい私に満足した父は、ふたたび書店へ私を連れていき、同じ文学書の棚から新たな2冊を選び出した。今度は、『二十四の瞳』と『野菊の墓』だった。

 当時の私は小学2年生くらいだった。もっと可愛らしい本、例えばピッピとかモモとか、そういうものを読んでいるほうがよかったのかもしれないが、私はふたたび、父の読んだかに答えるために、慎ましい装丁の情け容赦ない分厚い本を読んだ。結論から言うと、ちゃんと最後まで読んだが、実は記憶に残らなかった。おそらくは理解できていなかったのだろうと思う。だから、ずっと後になってあらためてストーリーを理解した、というくらい、残念なことに何も琴線に触れず、ただ読み終わってしまった。

 

 読書体験というのは、必ずしも読んだものすべてを糧にできるものではないし、なんなら大人だって、読んだことすら忘れているような本もあるので、何か得た記憶がない、ということ自体はいたって問題はない。
 しかし、読むべき時に読む本というのはあると思う。読むべき時に読んで、心の片隅にしまっておく本、というものがやっぱりあるのだ。

 人から勧められて読む本で目から鱗が落ちることはあるが、自分がタイトルや挿絵(でも何でもいいと思う)に惹かれて自ら手に取った本は、やはり自分が必要としている何かを持っている可能性がある。
 あ、という閃きで手にした本から、ぜんぜん違う閃きを得ることもあるけれど、それはそれでいいのだと思う。食指が動かない本を、さぁどうぞ、と眼の前にさしだされても、満腹の時に出されるありがたいごちそうみたいなもので、腹の虫ならぬ本の虫はそんなものを望んではいない。
 やっぱり、自分が欲しいと思うものを見つけるべきなのだ。

 これはわたしの個人的な経験かもしれないのだけれど、夢中になって読んでいるときの、頭の中で話し声が聞こえるかのような臨場感と没頭感は、子どもの時にしか感じられない特別な感覚だったのではないだろうか。今でも集中して本を読み、楽しむことはあるけれど、自分が物語の中にいるかのような没入感は、おそらくは現実的な感覚を成長させてしまった大人には、もう感じることができないものなのではないか、と思っている。
 大人になってなお、もしかしたら、大人になってなおさら、子供の時よりも没頭できる、という人もいるかもしれない。ただ、私はどうしても、客観的な目線を発達させすぎてしまったようで、どうにもあの頃のような入り込む感覚を呼び起こすことができない。もうすっかり失ってしまったのかもしれない。
 だからこそ、あのときの私は、もっと自分が全身で没頭できるような、わくわくする本を読むべきだったのではないかと思う。父が選んだ小説は、間違いなく名作であり、世代を超えて愛されるものであることは間違いない。しかし、まだ未熟な、自分の目で見るものが全世界だと信じていた私が飛び込むには、いささか広く深すぎたのだ。

 父の、買ってやったアレ読んだか、は、やがて本人も飽きたのか、それとも私の反応がいまいちだったことに気づいたのか、その後長くは続かなかった。私の楽しみは、ほんの少しの間、うっすらベールがかかったように、ぼんやりとしたものになったが、すぐに元の状態を取り戻し、私はそれからもずっと本の虫であった。

 

 やがて、大人になり、私はまた、本を読む時に自分の思うような楽しみを得られなくなってしまった。今度は父の介入ではない。

 大人になると、仕事で必要なので仕方なく読む、みたいなことは否応なしに増えていくのだが、それでも関心を持てる部分を見つけたり、実際に仕事に役立ちそうなところを探してみたりして、読む価値を見つけながら読むことがある。しかし、最近話題になった本のタイトルにもあるように、仕事のアンテナばかりを張っていると、楽しいと思う本は読めなくなってしまう。
 
 実際のところ、少し前まで、私はそうだった。

 これだと思う本を手にとって没頭する、という時間を、私はすっかり忘れてしまっていた。毎日が慌ただしく過ぎていき、結果的にそういう時間が入り込む余地はなかったのだけど、何か物足りないような、忘れているような、落ち着かない気持ちがくすぶり続けていた。それがなんなのかすら、もうすっかりわからなくなっていて、本の虫は完全に干からびてしまっていた。
 その後、転職と転居のタイミングで、私は一時的に無職になった。今日から仕事に行かなくて良い、というその日、私の脳裏に浮かんだ言葉は、私は自由だ、というものだった。いつだって本当は自由だったはずなのに、いったい何に自由を奪われていたというのだろう。

 ふと時間ができて、さっそく旅に出ることにした私は荷造りを始めた。必要なもの、必要かもしれないもの。荷物に詰めるためにスーツケースの周りに散らかしていく。そこで私は忘れていたものを思いだし始めている自分に気づいた。私を落ち着かない気持ちにさせていたのは、そうだった、すっかり干からびている、これだ。
 荷物の中に、本がない。
 そこでまた、はたと気づいた。今ここに、読みたい本がない。なんと潤いのない日々を過ごして来たんだろう。私は本当に心からそう思った。毎日を会社と自宅の往復で数年を費やし、わくわくと書店の中をひとめぐりして選びに選んで何冊かを手に入れるあの時間すら、どこかに置き忘れてきていた。そして、それにようやく気づいた。荷物をありったけ散らかしてから、である。

 荷物を散らかしたまま、私は本屋へ向かった。端から歩いて、気になるものは全部手にとって開いた。鼻腔をくすぐる新しい本の匂いと、煌々と明るい照明、適度に静かな店内。なんでずっと忘れていたのか、もはや不思議だった。ここに来るべきだったし、ここで見つけるべきだった。
 ずっと忙しかった。事実、時間に追われるような毎日だったし、本を読む隙はどこにも見つからないように思えた。
 でもそれは、実際のところ、時間を細かく切り分けた結果、どっぷりはまり込むまとまった時間が見つからなくなっただけだったのかもしれない。時間がないのではなくて、自分で細かく切り分けてしまっていただけだったのかもしれないのだ。心の奥底で干からびている虫はもう鳴いてすらいなかったので、ずっとそのままでいることさえ、できそうだった。
 
 読みたい本をすぐに読むこともあるし、わざと然るべきのためにとっておくことがある。この時は数冊買って、旅行先でのんびりできるタイミングで読もうと思っていたから、あえて読まずに持っていくつもりだった。

 でもやっぱり。虫は鳴いた。

 うっかり気づいたら、全部読んでしまっていた。散らかった荷物とスーツケースの間の狭いスペースで、中途半端な座り方をして。干からびた虫は目を覚まして、ぎしぎしと不器用に背伸びをし、だから私は本当に落ち着かないような奇妙な格好で、わかっていますよ荷造りだってしていますよ、とアピールするかのような、まさにこれから立ち上がろうとするかのような不自然な姿勢で、買ってきたばかりの本を全部読んだ。
 ふと気づいて立ち上がろうとしたら、目覚めたばかりの虫と同じように、腰も膝も苦しげな音を立てた。

 読むべき時に読む本というのは、ある。読むべき時に読んで、心の片隅にしまっておく本、というものがやっぱりある。また。その時腑に落ちなくても時間をかけてようやく落ち着くところにおさまることもある。
 虫は鳴かない時だって、読んだものが自分のところに落ちてくるのを待っている。たとえ干からびたとしても。
 だから、あの時父の強引な勧めで読んだ本も、きっと少しずつ虫に届いたはずだ。もしかしたら、ずっと干からびたままでいたように思えるけれど、新しいものを全然与えてくれない「主」に不満を持ちつつ、本当は古い昔に消化しきれなかった本を栄養にして待っていたのかもしれない。
 その証拠に、あの時、本当に大きなお世話だと思った父の強引な気持ちも今なら理解できるような気がするし、幼いながらに読んだあの飾り気のない表紙の本も、もう一度読んでみようかという気持ちになっているわけなのだ。

 さて。また、虫が鳴いている。
 


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最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます。
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本の虫も喜びます。
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