〈エッセイ〉ええことを言わない。【ともや】
話すとき、書くとき。
とにかくええことを言いたかった(注:ええこと=「よいこと」の関西弁)。人の心にズドンと刺さるような、とっておきの言葉。「あなたの言葉が心に響きました」。そんな風に言ってもらえる言葉を、会話や文章の中に落とし込みたかった。
特に書いているときに思うけれど、たまに自分でも「本当に?」と思ってしまうような、とっておきの「ええこと」を言っている時があることに自分で気がつく。
その言葉は、一応本当に思っていることではあるから、まったくの嘘ではない。けれど、身の丈に合っていない言葉の強さと綺麗さに、ときどき自分でも寒気がする。
そういった時には大抵、自分の本心というよりも他者にどう思われたいか? ということが先行している気がする。「何かいいことを言わなくちゃならない」「頭がいいと思われたい」なんてことが先導していて、自分の言葉を美麗に修飾する。本当にその場のことを考えているかについては懐疑的だ。
話はがらりと変わるけれど、先日『怪物』という映画を見た。カンヌ国際映画祭で坂元裕二さんが脚本賞を、作品自体がクィア・パルム賞を受賞された作品だ。恥ずかしながら是枝監督の映画を観るのはこれが初めてだったのだが、とても心に残る作品だった。
なぜこんなにも心に残るのだろう。各キャラクターたちが、ええことを言っていたからか? と振り返ってみる。たしかにポツポツと思い浮かぶ言葉はあれど、それは一要素に過ぎなかった。
誰かが言った言葉よりもやっぱり、作品全体が心に残った。演者一人一人の表情やセリフ、演出や音楽。それぞれの仕掛けや物語の流れが、私の心を揺さぶった。その構成の中で自然と発生する言葉たちだからこそ、作品そのものが心にスッと入ってくるのだろう。
「ええこと」というのは、きっとそういうものだ。誰かの「よい言葉」よりも、その時間全体が心地よかったと、みんなの心に残るような時間。『怪物』で言えば、「ええもの見たなぁ」って、バカみたいな第一声しか出ないような。
そのためにまずは「ええことを言わない」ことから始めようと思う。いや、正しくは「ええことを言おうとしないこと」。みっともなくても、ダサくても素直に言葉にしてみること。
会話や文章も、自分だけが目立とうとするのはたぶん自慰行為に近い。文章であれば読み手と、会話であればその他の話者と、共によい時間を作ろうとすることで、その会話や読む行為全体が、「ええこと」に変わっていく。
楽しかった飲み会ほど、誰が何を話したのか覚えていないことが多い。そんな風に、「なんか楽しかったなあ」って終わる時間を共に創っていきたい。
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