ASDの自覚
前回、息子・ケイの療育を契機に、私自身のASD自覚につながったと書きました。
その療育で出されたのが「サリーとアンの課題」です。
(実際の登場人物は違いましたが、ここではサリーとアンで書きます)
サリーとアンは最初、同じ部屋にいる。部屋にはサリーのバスケットとアンの箱が置かれている。サリーがビー玉をバスケットに入れる。そしてサリーは部屋の外に出ていき、その間にアンがビー玉を自分の箱に移動する。最後にサリーが部屋に戻ってきて、ビー玉を取り出そうとする。そして、子どもに「サリーがどこを探すと思うか(信念質問)」、「ビー玉は今どこにあるか(現実質問)」および「最初にビー玉はどこにあったか(記憶質問)」を聞く。
(心の理論 - 脳科学辞典より抜粋)
ケイは3つの質問のうち、「サリーがどこを探すと思う?」だけ間違えました。
「箱を探す」と答えて、理由を聞かれると、
「だってビー玉は箱に入っている」
と言います。
この間違いを、
ケイはまだ論理的思考ができないからだ、
と私は考えました。
でも、そうじゃない んですよね。
私はこのとき「そうじゃない 」ことに気が付きませんでした。
私の思考方法
なお、私は考え方はこんなこんじです。
アンがビー玉をアンの箱に入れる場面は、
サリーの視界に入っていないから、
サリーはバスケットを探すだろう。
文章にすると、まるで私がサリーの視点に立てているかのようですが、実際の頭の中はこれ。
図解なんです(笑)。
解説用に図を書いているんではなく、頭の中で図が作成されていくんです。
これを一般的だと思っていました。
ASD自覚の決定打
それから少し経って。
たまたまこの記事を見かけました。
ここで、多くの子どもたちは、「アンはいじわるだね」とか、「アンはどうしてそんなことをしたんだろう」という感想を持つらしいのです。この感想の有無のほうが、正解不正解よりもアスペの特徴を反映すると書いてある本もあります。なんてこった!
同じく、びっくりしました。
課題なので、私にとってサリーとアンはあくまで記号です。
人物A、人物B、なんです。
課題を構成する記号に対して、感想なんて出てきません。
この記事を読んで、強烈に
自分はASDなのだ
と思いました。
目が覚めた、といえばいいでしょうか。
視界ががらりと変わったのです。
もちろんケイのことがありましたので、ASDの特性は調べていました。
けれど、知識としてぼんやりとしていて、感覚的には分かっていませんでした。
「これがASDか!」となりました。
(表現が難しいんですが、伝わりますか?)
さらには
「定型さんは感覚的に正解が分かる」
「正解が分かってから後付けで論理的な理由付けができる」
という別のTweetを見つけまして。
(記事を書くのに探しましたが、見つけられませんでした……)
そんなバカな、状態ですよ。
直感で分かるとか、どういうことなの……?
長くなったので、
それからなにが変わったのか
というのは次の記事で書きます。
ちなみに、自覚した今でも、
サリーとアンは記号です……
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