封殺される言葉と取り残されるメディアの良心
言葉が封じられている。とりわけ批判の言葉が。
対立を好まない人が多いのは世の常として、この頃は「批判」をネガティブな行為として捉える傾向が強い。政府や行政、政治家を批判することが忌み嫌われる。「彼らも頑張ってるんだから文句を言うのはよくない」という反論に、奇妙なねじれを感じて困惑することがしばしばある。
たとえば、政府や行政のあり方や方針を問うているのに、現場の担当者個々人の働きぶりを責めているかのように、話をズラされる。言葉が宙ぶらりんになり、対話が成り立たなくなる。
政治家は公人であり、政権与党は権力主体に他ならない。それなのになぜ、こういった権力者を普通の市民が必死にかばうのか、私には不思議でしかたがない。
批判という行為そのものが否定され、無力化され、抑圧されている。そういう社会にあっては、権力主体を監視し批判するという社会的機能~マスメディア~が麻痺するのは、当然の成り行きなのだろう。言葉と論理と倫理が軽視され、効力を失っているのだから。
記者会見やインタビューの場で、権力者が回答を拒否する。あるいは不合理な言い回しではぐらかす。臆面もなく嘘をつき、追及する者たちを逆に嘘つき呼ばわりする。こういった反則技をぬけぬけとやられては、言葉で追い詰めようとするメディアの試みは頓挫する。しかも、これらの反則技、言葉そのものを脱構築するやり口は、スマートな「論破」の手法として少なくない支持を得ているのだ。批判を含めた言論活動が困難をきわめるのは無理からぬことで、マスメディアの社会的影響力が弱まっているのも、根本的にはそこに起因している。
マスメディアが権力を監視・批判しないから権力が増長し、社会全体に抑圧的な雰囲気を作り出してしまった……というように、因果関係を逆方向で考えてみることも可能だが、「卵か鶏か」ではらちが明かない。犯人探しは意味がない。重要なのは、いまこのような状況に「わたしたち」が置かれているということだ。
この状況の行き着く先に、壊滅的な、取り返しのつかないことが待っているのではないか、という差し迫った危機感を前提として、私は権力監視機能の弱体化とマスコミ不信の問題について考えている。民主主義はロゴスと不可分に結び付いているから、ロゴスが死ねば民主主義も死ぬ。言葉と論理と倫理が潰えたのちの混沌、無秩序状態に乗じて、権威主義と独裁が生まれ、世の中を覆っていく。その兆候は日に日に明らかになっている。
メディアに関わるこれらの問題を、「わたしたち」の問題として捉えなおすことが先決だ。従前の「マスゴミ叩き」では業界と社会との溝が深まるばかりで、問題解決から遠ざかってしまう。ここはみなが冷静になって、利害関係者の自覚を持ち、議論のテーブルにつくべき。「わたし」と「あなた」ではなく「わたしたち」として、問題意識を共有し、対話を始めるべきではないか。
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