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”報道の自由”を考える

澤康臣 著「事実はどこにあるのか~民主主義を運営するためのニュースの見方」(幻冬舎, 2023)を読んでみました。”市民のために働くメディア” の視点が貫かれている良書です。

報道する側の立場や考え方を知ることができたのは収穫でした。

報道されることは取材対象者にとって、必ずしも利益にならない。不利益になる場合すらある。取材される側の「報道してほしくない内容」も公益のためなら伝えるべき、という立場を著者はとっています。そうでなければ、報道ではなく「広報」「広告」になってしまうから。

これは被害者の実名を報道するかどうか、といった問題に関わってきます。報道の自由は時として個人の人権や社会のルールとぶつかりあい、軋轢を生じさせる。メディアスクラム等による人権侵害を引き起こすことも。

取材対象を傷つけないことやルールを順守することに固執していては、真実に迫ることはできない、という主張には妥当性があります。職務に忠実な報道関係者であれば、公益に資する報道とは何かを真剣に考え、ジレンマを抱えながら事に当たっているのでしょう。それはとても尊い営みで、社会にとって必要不可欠です。

とはいえ、私自身の立場(報道被害者)としては、やはり取材対象者の尊厳や人権を最大限に尊重してほしい。公人ならまだしも私人、ごく普通の一般人に対しては、慎重すぎるほど慎重に配慮するべきだと思う。強大な社会的地位や影響力を持たない一般人にとって、マスメディアは権力に他ならないからです。

両者が取材の場で出会った時、著しい不均衡が生じます。その不均衡に自覚的ではない報道関係者は、容易に取材対象者を傷つける。公益の名のもとに人をないがしろにし、踏み台にさえする。それは私が身をもって体験したことです。

報道の自由とそれに伴う特権が許されるのは、本書で繰り返し書かれているように、「みんなのため」という公共性にのっとって社会的な責務を果たすという、高い倫理に裏打ちされた場合に限られます。報道倫理を置き去りにしたまま、「公益のため」「社会のため」という理念を表向き掲げて好き勝手なことをするのは論外です。それは報道に携わる者の特権を利用して私欲を満たしたり、組織の存続を図ったりしているに過ぎない。

報道の自由という特権は、社会から「貸し与えられている」ものです。それを忘れた時、報道は腐敗する。報道が腐敗すれば社会全体が腐っていく。報道の自由を正しく発揮して「みんなのため」に真実を伝えるには、いったいどうしたらいいんだろう? そのことを報道関係者だけでなく、「みんなで」考える必要があるんじゃないか、と思っています。


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