エッセイ『8月ジャーナリズム』
昨日の読売新聞『編集手帳』より、「いつからか、8月ジャーナリズムという言葉が生まれた。過去の戦争への検証と反省があふれ、風物詩と揶揄されもするが、新聞はこの仕事を使命とし誇りにもしている。」
毎年8月になると戦争や平和に関する報道が目立つことを「8月ジャーナリズム」といい、その集中的報道あるいは逆に他の時期にまったく報道しないことへの揶揄を含む言葉なんですが、新聞はじめメディアの皆さんが、揶揄に負けず毎年しっかり報道してくださるおかげで戦争の残酷さ、恐ろしさを思い、二度とあのようなことがあってはならぬのだと思い直す貴重な機会だと思っています。ご先祖様との対話の季節と重なることもあり、どこか背筋ののびる8月という月です。
新聞各紙、8月は実際に「戦後78年」の特集記事が多く、ここ数年はいつ戦後が終わってもおかしくない異常な状態が続いているため、その「戦後78年」という見出しの切迫感が77年の去年よりも強い。年々強くなっている気がする。
都内の私立小学校6年の児童たちが岸田総理へ政府の安全保障政策への疑問を綴った手紙を送った件で良識ある大人の皆さんが「学校はわからない事の調べ方を教わる場所です。防衛費が増えた理由は、岸田首相に手紙を書かなくても、国会答弁やニュースを見ればわかります」
と嘲笑っていたそうです。
手紙が返ってこないことについて「一国の総理にそんな暇はない」とコメントしている大人もいました。
そういうことじゃないと思うんですよね。
じゃあ、どういうことなのか、理論立てて説明できないから僕はこの人たちに論破されてしまうけど、この人たちの思考に対して湧き上がる違和感の塊が、僕は戦後78年の今、大事なんじゃないかと信じている。だから、この違和感の塊をしっかり言葉にして発信できる方がおられましたら、是非、僕の代わりに理論立てて説明してやってください。
蠱惑暇(こわくいとま)