たそがれせまる街並やの「や」
6年ほど前に我が家のダジャレ弁当が、どういうわけだか話題になりまして、『サラメシ』『月曜から夜ふかし』ほか、いろんなテレビ番組に取り上げていただきました。その年の紅白歌合戦の前の番組で玉木宏さんやピースの綾部さんに食べてもらったりもしました。(実際に食べたかはわかりませんが)
当時は毎日facebookにお弁当をアップしていたため、いまも「何年前の今日の投稿」ってやつで毎日上がってくるんですが、今日上がってきたのが「ルージュの伝言」ならぬ「ルージュの蓮根」だったのでした。
それで久しぶりに荒井だか松任谷だかどっちだかぎりぎりわかりかねる由実さんの「ルージュの伝言」を口ずさんでみたんです。自転車で四条烏丸から西院方面へ走りながら。昔はもっと気兼ねなく大声で歌っては通行人に振り向かれたりしたものですが、いまはコロナ禍、自分に聞こえる程度のボリュームで吉兆のおかみばりのウィスパーボイスで口ずさんでおりました。
🎵たそがれせまる 街並や車の流れ
横目で追い越して🎵
って部分がありますよね。
今日、私はこの部分を口ずさみながら新発見をしてしまったのです。「しまった」というからには「知らないほうがよかった」という新発見なわけなんですが、皆さん、この「街並や車の流れ」の「や」のことをどう捉えておられますかしら。
これって、
「街並と車の流れ」「街並および車の流れ」「街並または車の流れ」っていう、なんにせよ「並列」を表す「や」なんですよね。「and」でもいいのかしら。皆さん、このことについておそらく「え?そうやと思いますけど?」って感じかしら。
私は今日、このフレーズを口ずさむまで、なんの疑いもなく、この「や」は「名月や池をめぐりて夜もすがら」の「や」、つまり「詠嘆」の意味の「や」だと思っていたのです。
なので、私の中では、この箇所が、
「たそがれせまる街並や」と、
「車の流れ横目で追い越して」の2フレーズやったんです。
「嗚呼、なんだか黄昏が街並に迫ってくるのであるなぁ。」っていう感動があった後に、やや冷静になり、車の流れを横目で追い越したんやと思っていたのですが、おそらく実際は、街並そして車の流れに黄昏が迫っており、それを横目で追い越しているわけで、なんというか、この箇所全体に強い感情の挟まる余地はないのです。
これに気づいたときに、私は、それまでの自分の解釈によってその部分の歌詞が好きであったために、なんか、えらいショックを受けたわけなのであります。新発見を「してしまった」と書いた所以であります。だって自分が思っていたよりも随分平板になってしまったんですもの。
それにしても「や」の解釈により、こうも見える世界が変わるものなのか、という新鮮な驚きがあります。あと、どうして今日に限って、この歌詞の「や」の別の意味の可能性について考えてしまったのでしょうか。あ、「どうしてなっの〜🎵今日に限って〜🎵」
今日は朗読の収録に立ち合うというお仕事がありまして、その現場に向かう途中の出来事でしたから、いつも以上に、余計に言葉一粒一粒に対して神経質になっていたのかもしれません。さっきまでは私にとっての新しい発見が気に入らなかったんですけど、実際、あの「や」が、どういう意味をもつ「や」なのかはわかりませんし、ユーミンがどういうつもりで書いたにせよ、作品として羽ばたいた以上、もはや、こちらがどう解釈しようが受け手側の我々の自由のはずです。であるならば、一つ解釈が増えたことを喜ぼうではないか。
たった一文字の「や」のことを考えるだけで、私は今朝と比べて豊潤な世界を生きることになりました。言葉を大切にすることで、暮らしは豊かになります。逆に大切にしないことで世界は枯渇し、つまらないものになります。言葉に対する意識は世界を潤したり壊したりします。ラジオの世界も同じだと思うなー。
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