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辻褄はあわなくていい

山田太一の『路上のボールペン』というエッセイ集を読んでいたら、「舌の始末」というタイトルの文章がありました。

戦後の貧しい時代を生きてきたんだから、食い物の微妙な味覚について、ごちゃごちゃ言うのはよくない。塩気が足りないだとか、味が薄いだとか、そういう奴には「なんというひ弱な舌よ」とひそかに軽蔑の目を向けた、と実に心強いことが書いてありました。

ところが。
「ひ弱だ」と軽蔑していたにも拘らず、自身が数年前にある地方の宿に泊まった際、土地の人が「こんなうまいものはない」とすすめてくれたものが、まったくうまくない。戦争直後なら、うまいと思ったに違いないのに、いつの間にか舌が「ひ弱」になっていたのだと書いています。

これが1975年の文章で、この「舌の始末」に続いて1982年に書かれた「ホテルの朝」という文章が載っていましたが、こちらになると、冒頭からホテルの朝食に対する注文が延々と続きます。これは本当にあのひ弱になった舌を嘆いていたのと同じ人物なのか?と思いますが、読み進めていくと、「ホテルの朝食にこんなに注文をつけるようになってしまって情けない」「戦後の三十七年が、いつの間にか飢えた子供の舌を、かくの如く育ててしまったのか」と嘆いています。

この一連の流れが非常に面白く、この2作品を並べて掲載した編集者の方の感覚に拍手を送りたい。

しかしながら、山田太一さんは嘆いていますが、人は環境や年齢によって思考も嗜好も変わっていくものだと思うのです。ところが、山田太一さんがまさにそうであるように、人は変わることを良しとしないところがあります。あ、主語がでかいですか。少なくとも私はそういうところがあります。なぜかというと、「辻褄が合わない」からです。

「昔は◯◯って言ってたくせに、いまは●●なんだね」って指摘されるのが実に苦しいものですから、変わってしまったことに対して、いつもなんらかの言い訳を用意しようとしてしまいます。

しかし。
別にもう、いいんじゃないかという気もするのです。変わるのが当たり前なんじゃないでしょうか。何年も前から「この職場にはアイデアを出す人がいない」と文句を言い続けている人を知っていますが、現在に至るまで、一貫して「アイデアを出す人がいない」ことを嘆いているのはどこか滑稽です。

政治家の発言なんかも、3年前、5年前、10年前と現在とで発言にブレがあるとやたら叩かれがちなんですが、むしろ、同じことを言い続けているほうが更新されなさすぎて大丈夫かな?と思います。臨機応変に態度を変えるほうが、政治家としては正しいのではないかしら。

昔、私は「料理の写真は絶対に撮らない。あんなことをするのは料理を作ってくださった方に失礼だ」と思っていましたが、いまではとりあえず撮ります。「こんなことは絶対にやらない」ということをアイデンティティにしていると、「自分」というものを維持しやすいし、何より楽である反面、成長を自らストップさせてしまっているような気もします。(おじさんになるにつれて、新しいことに挑戦しなくなるのは、楽だからだと思う)

「ああ、ほんまのオレはこんなことをする人間と違うんやけどな」とかなんとか言いながら、ニヤニヤしながらそれをやってしまう、というような、芯の無さこそが、実は人生を
楽しむ秘訣なんかもしれないと思い、また、そういう扉をいやがおうにも開けさせられるのが仕事だったりもするな、と思えばいくぶん仕事に前向きになれるのです。

#令和3年10月30日  #コラム #エッセイ #日記
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