
短編小説『余らせた出し巻き卵』
令和4年9月24日
飲み屋を経営している先輩がぼやいていました。先輩のその店は、私も何度か飲みに行ったことがあるんですが、先輩の店だから、というわけでなく、いいお店で、まず清潔感があり、接客に全く不満を感じない。飲食店において、私はこの二つのほうが料理が美味しいとかよりも大事やと思っています。と書くと、なんだ、料理は美味しくないのか、と早とちりする人がいるかもしれませんが、そんなことは全くなく、特に先輩が考案した特製の出し巻き卵が絶品で、私は料理を褒める語彙をあまり持ち合わせていないため、うまく説明できないのですが、とにかく美味い。料理人としては素人だと思っていた先輩がこんな美味い出し巻きを考えて実際に作っているなんて、たいしたものではないかと感心しているのです。聞くと、自分でも上手く巻けるようにと、相当、練習を積んだらしい。あまりそういう努力の跡を見せない人ですが、一度、店で実際に巻いている姿を見て、これは素人の技ではないなと思いました。料理人としては素人同然であるはずの先輩が、素人の技とみえない技で出し巻き卵を巻いているんです。私は感動してしまいました。
しかし、そんな先輩のお店も、コロナ禍で苦境に立たされており、特に平日は夜も閑古鳥が鳴くことも多いらしい。そこで先輩はこの苦境を打破すべく、2名以上で来店した客には先輩得意の出し巻き卵を無料提供するというサービスをはじめ、Instagramなど各種SNSで告知したところ、効果覿面で、見事なまでに2人1組の客が平日に訪れることが増え、無料の出し巻き卵も大好評、サービス分を差し引いても、かなりの利益の出る結果となったそうです。なかには1人あたり8000円ほど飲んで帰った女性客もおり、先輩の店は平均単価が3000円に満たない程度なので、いかにすごい数字かわかるというものです。
そんな風にして客足が戻り、先輩特製の出し巻き卵も大人気、毎日巻きに巻きまくるおかげで先輩の出し巻き卵の腕前は上達しまくり、売上も上がりまくり、気分上々、店の評判花丸GTといった具合になったんですが、ある日の平日、その日も2人1組の客で賑わう店に30代とみられる男2人が入ってき、生ビールを1杯ずつ注文したそうです。2人1組ですから、もちろん出し巻き卵はサービスしますが、何せ、2人1組の全ての客に等しくそのサービスは提供されるものですから、最後に入店した彼ら2人への提供は一番最後になります。いくら先輩の出し巻き卵のスキルが上達したとはいえ、1人前を巻く時間を巻くことはできません。ややこしいですが、巻くというのは早めに進めることです。ラジオ業界ではよく使う言い方なんです、すみませんね。話を戻しますと、彼ら2人はなかなか出し巻き卵が出てこないので、接客スタッフを呼びつけて「出し巻きまだなん?」「急いでるから早よしてくれ」などとおっしゃったので、しぶしぶ先輩へそのことを伝えにいきましたところ、先輩も何やねんと不満を抱えつつも、そんなに言うんだったらと、前の客の分をその急かした男2人組に先に出したわけなんですが、その男2人組は、先輩が後回しにした客の出し巻き卵を出すより前に、その出し巻き卵だけ食べて会計を済まして帰ってしまったらしい。生ビール1杯ずつですから千円にも満たない額です。確かに先輩は、「◯千円以上ご注文の方には出し巻き卵をサービスします」というような断りは書いていませんでしたから、男2人のとった行動は、悪いことではないでしょう。もちろん罪に問えるようなものではありません。しかし、それはお互いに「もちろんわかっていますよね」っていう暗黙の了解といいますか、「え、そんなこと、わざわざ注意書きしておかないとやっちゃうわけ?」っていうことだと思うわけです。
先輩は「別にかまわんのやけど、しょーもないことするなー」と言っておりましたが、その男2人組にしてみたら、「何があかんねん」ということなのでしょうし、むしろ2人して「こんなサービスしとるから生ビール1杯ずつだけ飲んで帰ったろけ」と店側に少なからず悪意をもって来店したに違いないし、店を出たあとは武勇伝として語っているはずです。2人にとってはルールに則り、なんら違法なことをせず、店側の思惑を逆手に取ってやったということなのでしょう。しかし、本当に2人は間違ったことをしていないのでしょうか。何か釈然としないものが残るわけですが、私はおそらく、この釈然とせずに残ってしまう、「余り」の部分こそが人間らしさなのだと思うのです。
人間らしさって「余り」なんです。厳然としたルールに則り、法の下、平等に生きていくなかで、余計なものの中にこそ、人間らしさが有るのだと思うのです。私は近頃、この「余り」の部分を蔑ろにする人のなんと多いことかと思うのです。「余り」の無いことが美しいとか、正しいだとか、そういう世界になってしまったような気がするのです。もっと余らせていかないといけません。男2人は出し巻き卵を完食せずに帰ったそうです。