陽炎のような密度ずらしと仲間はずれ
令和3年5月5日の日記
地球科学者・尾池和夫さんの著書『季語の科学』に「陽炎(かげろふ)」は「強い風がなく日差しが強い日、地上に沿って遠くを見たとき、遠くにあるものがゆらゆらと揺らぐように見える現象」と説明があり、「通常は直進する光が、異なる密度の空気がある場所では密度の高い方へ屈折して進む。観測の対象となる景色や物体と観測者との間に、異なる密度の空気が隣り合っている場所があると、そこを通過する光は直進とは異なる経路をたどるために、景色や物体が通常とは異なる見え方をする。光学では、このような原理で揺らぎができることを「シュリーレン現象」と呼ぶ、とありました。
『広辞苑』第七版では「陽炎」は「春のうららかな日に、野原などにちらちらと立ちのぼる気。日射のために熱くなった空気で光が不規則に屈折されて起こるもの。いとゆう。はかないもの、ほのかなもの、あるかなきかに見えるもの、などを形容するのにも用いる。その際「蜉蝣」を意味することもある」と書いてあります。
科学的言葉で語るのと、国語的言葉で語るのとで、語られ方がずいぶん変わるものです。尾池和夫さんの『季語の科学』は、季語という、国語・文芸寄りのテーマを科学的言葉で解説しているところが非常に面白い一冊です。(まだ全部は読めてないですが)
この試み自体が、観測の対象(季語)と観測者との間に、異なる密度の空気を隣り合わせに作り出し、通常とは異なる見え方を提示しているようですごく面白い。
と同時に私は、この陽炎という言葉の解説が「いじめ」の構造にも似ているような気がしました。学校をはじめ、なんらかの集合体における「いじめ」のなかで私は最も残酷なものの一つに「仲間はずれ」があると思います。「仲間はずれ」は最少なら「3人」のグループで起こり得ます。どのようにして起こるのか、といえば、いろいろなやり方はあると思いますが、一つ、狡猾なやり方として、1人に対してだけ、「異なる密度」を作り出し、他のメンバーは全員、「同じ密度」で楽しんでいるにもかかわらず、標的とされた1人だけは、密度が異なるため、中身が陽炎のようにはっきりと見えず、疎外感が残るというやり方があるよな〜ということを、ふと感じたのでありました。
そうやってして弾かれて違う密度を作られていることが、私は昔から、すごく多いのです。ああ、そういうことやったのか。と、なんかもやもやしていたものがすっきりしたような気がします。読書のおかげで、もやが晴れました。晴れたからって、この場合は気分までは晴れませんが。自分は誰かに対して、狡猾に残酷に意図的な密度ずらしをして、その人のことを傷付けてはいないだろうか。
そういうことをしている人に対して「密度ずらしはやめましょう」と言っても、人のフリというのはなかなか直らないものです。なにしろそういうことをしている人には自覚がないし、それを「瑣末なこと」と思っていたなら、それを指摘することは「小さいこと」であり、指摘する人は「小さい人」で片付けられてしまいます。もしくは指摘されたところで「え?私が悪いの?」と開き直ってしまえば終わりです。それどころか一転被害者にさえなれてしまいます。そうなると、これはもうどうしようもないことですから、そうであるなら、せめて、自分が他人に対して同じことをしないように律していくしかないのです。
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