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矛盾だらけでもいいから好きに囲まれて生きたい

小学3年の頃から高校3年までクラブや部活はずっと野球部でした。厳しい指導もありましたが、基本的には野球が好きなので耐えられたような気がします。あと、なんやかんやで最低限の運動神経があったのもよかったのかもしれません。中学生時代は夏休みの練習の最後の仕上げが200m走で、40秒以内でゴールできるまで延々と続く、という過酷なものでした。こんなもの、1回目にゴールできなければ、2回目以降ゴールできるわけがないのですから、足の遅い子にとっては地獄だったと思いますが、幸い私は足が速かった。

あの頃は野球のルールなんて知っていて当たり前でしたが、いま、長男も次男もちゃんとした野球のルールは知りません。テレビ放送も無いし、私が積極的に教えることもないのだから仕方ないのかもしれませんが、我が家のような家庭が一般的なのだとしたら、野球の未来もそう明るいものではありませんね。

高校生の頃、バスケットボール部の顧問で物理の先生が「野球なんか、とにかく点を多くとれば勝ちなんだから守備のことは構わず、打撃練習だけしておけばよい」と主張しており、その主張をまに受けたバスケ部の同級生と喧嘩になったことがありました。そのバスケットボール部顧問がいうには「野球なんて簡単なスポーツ」らしい。結局、「それに比べてバスケットは奥が深い」という理屈を展開するわけなんですが、あの時のバスケ部顧問に限らず、自分の仕事は難しいけど、それに比べて他の仕事の底の浅さときたら・・・っていうことをおっしゃる方は思いのほか、たくさんいらっしゃる。

自分の知らない世界のことを、自分の知っている世界の物差しで無理やり計ろうとしちゃうんですよね。そういう人に限って張本勲がサッカーの話題に喝を入れると「おまえに何がわかるんじゃ」と非難したりする。そうかと思えば松本人志が政治の話をすることに対しては何も言わなかったり。そんでもって、そうした矛盾を一つずつ指摘すると逆ギレしたりするわけです。整合性なんて無いんです。「俺の言うことは正しい」でしか無いんです。そういう大人があまりにも多いような気がします。

しかし、そういう大人があまりにも多いということは、つまり、人間なんてそんなもんだということでもあるんだと思う。何一つ矛盾を抱えない人生なんてあるものでしょうか。

なんでもかんでもコロナ禍のせいにして、荒んだ心の中の鬱憤をSNSに晒す大人の何と多いことかと思いますが、私だってそんな大人の1人である、と言ってしまうほうが気は楽ですよね。みんな自分に甘くて他人に厳しいわけです。そんなもんだと思っているほうが、毎度毎度、世の大人たちの矛盾を逐一指摘する人生よりもストレスレスで楽しい。承認欲求の強さゆえに「俺は俺は」とむやみやたらに自分を主語にして、この世のなかで俺こそが、俺だけが正しいとばかり主張する阿呆なおじさんたちのことを「俺はあんな大人とは違うぞ!」と気張るよりも、「まぁ、わしもあれと似たようなもんやな」と力を抜いてのらりくらりと生きるほうが人生、楽しい気がするな。

この1200字余りの間でさえ、主張が行ったり来たりする自分のことを許せる人生と許せない人生と、どっちが自分にとって生きやすいでしょうかしらね。あんまり窮屈な生き方しなくてもいいんじゃないかしら。好きなものは好き、嫌いなものは嫌い。なるべく嫌いを作らずに、好きに囲まれて生きていきたい。

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