しません型マウント
自分の感性には自信を持ちすぎないほうがよいのだろうなと思う。自信がありすぎると変わらないでしょう。新しいものを咀嚼する前にシャットアウトしちゃうでしょう。私は制作というクリエイティブな仕事をなりわいにしているためか、周りに割とご自分の感性に自信をお持ちの方が多いのですが、そういう人たちの言動を側から眺めていると、時折、自信を持ちすぎるのも考えものだな、と思います。
よくあるのが「私は◯◯しません型」です。「ビジュアル系なんて聴きません」とか「テレビなんて見ません」とか、そういうタイプで、それは別に構わないのですが、何がよくないかといえば「そんなものには見向きもしない私イケてる」っていうアピールに「しません」を利用することです。何をしませんなのかは別になんでもよくて、要するに「そんなものには見向きもしない私のセンス」を自慢したいだけなのです。しかし、この手の人はそもそもビジュアル系とは何か?をよくわかっていないから、L'Arc〜en〜Cielのことをそう言っていたりしてセンス以前の問題だったりします。最近、何人かから聞いた「YOASOBIなんて聴かない」という意見については、もうそれを声を大にして言うてしもてる時点で意識してしまってるやんと思ってしまうのですが、その恥ずかしさには思いが至らないようなのです。何人かのクリエイティブな感性を自認する人に「聴かない」と言わしめている時点でYOASOBIの勝ちなんじゃないかと思います。別にYOASOBIはそこと勝負してるつもりもないんでしょうけど。むしろ、「あんなのとは勝負しない」という宣言によって敗北しているんだろうな。
これが例えば仮に坂本龍一が「最近YOASOBI聴いてるんですよ」とひとこと言いさえすれば、それまで聴かない宣言していた人たちが手のひら返して聴いたりするんです。そんでもって言い訳がましく「いや〜、これまで聴いてこなかったから知らなかったんだけど聴いてみたらけっこういいよね」なんて恥知らずなことを堂々と言ってのけたりする。ここでポイントとなるのは、そこでは教授の名前を出さないところです。そういう意地汚い連中の主張には耳を傾けなくてもいいのですが、私の理屈でいくと、こうやって相手にしてしまっている時点で私の負けなのだと思う。負の感情に巻き込まれてしまっているんです。実に情けないことです。
年々、新しいものを取り込むのに臆病になっている気がします。なんとなく怖いんです。でもその怖さって取り込んでみたら実は怖さではなくて親しみであったりするんですよね。そこに親しむ程度には感性に余力を残しておかないと、せっかくの感性が腐ってしまいます。だいたい誰も聞いていないのに自分から「YOASOBIなんか聴きません」と主張することについて何も恥じていないってもう結構危ない気がするんですがいかがなものかしら。
#令和4年3月16日 #コラム #日記 #エッセイ
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