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短編小説『太陽日記 8月20日』

令和4年8月20日

 修復工事中の東本願寺阿弥陀堂門の見学の1人目の客になれなかったオレは、その後、御影堂で浄土真宗大谷派の偉い人と思われる人のありがたいお話を聞いていた。広い堂内には気付けばそれなりに人が集まっていた。オレはさほど信心深いわけではなく、たまたまその場にいただけなので、そんなに真面目に話は聞いていなかったが、オレ以外の聴衆は、しっかり力を込めて聞いていたように思う。あの力が世に言う聴衆力だろう。堂内にパワーホールが鳴り響いた。オレの信心深さなどその程度のもので、偉い人が「本当はもっともっと話し続けたいのですが約束の25分が過ぎたのでこれにてお開きといたします」とおっしゃったとき、「よし!」と思った。あれは、つまらないバンドの演奏を観に行ったとき、やっと終わったよ、と思った時の感じに似ていた。アンコールが始まるときに心底腹が立つとき、あるしな。しかし、今日の法話に関しては、内容について詳細に覚えているわけではないが、興味深い話もあり、久しぶりに正信偈を唱えてみたくなった。その程度の信心深さはあり、何より、法話云々は別にして、オレは東本願寺が好きだ。

 ありがたい法話を聞き終え、聴衆はまだ立ち上がらない。どうしてなのかわからないが、誰も立ち上がらず、何か、余韻に浸っているようであったのだが、正直、オレは帰りを急いでいたので、申し訳ないと思いながら、聴衆の誰よりも早く立ち上がった。阿弥陀堂門の見学の1人目の客にはなれなかったが、1人目に立ち上がった。すると、オレが立ち上がったのを合図に二人目三人目とぽこぽこぽこぽこ立ち上がった。どちらかといえば実はオレ寄りの人間が他にもたくさんいたのだ。

 父が亡くなったときのことを思い出した。病院から霊柩車で実家まで亡くなりたての父を運び、オレは助手席に乗っていた。余計なことは喋らない運転手だった。実家に運ばれた父は、もう父ではなく置き物だった。死体を綺麗にする仕事の人がやってきて、亡くなった父を綺麗にした。仏壇のある部屋に横たわった父の前に正座している涌井家の一族。最前列に座ったオレの角度からは父を綺麗にしている作業がよく見えた。鼻の穴を指で広げて白い綿を詰め込んでいた。口もこじ開けて無理やりに中に詰め物をしていた。父は苦悶の表情を浮かべることなく、やはり置き物であった。

 お寺の人のことを地元では「ごえんさん」と呼ぶ。おじいおばあの時もお世話になった「ごえんさん」がやってきて、この人も、もちろん、浄土真宗大谷派なんだが、とにかく話の長い男で、その話が何も面白くなく、いい話している風で結局何が言いたいのか、よくわからない。長い長いお経を唱えて帰っていった。

 お葬式は翌日。実家に父がいるのは、その日が最後だったから、横たわっている父の横でオレも横になって寝たし、オレの横には何人か涌井家の一族が横になった。父の一番近くでオレは寝たんだが、当然のことながら、気配なんぞ何もない。父はもう、父ではなかった。

 翌朝も「ごえんさん」が来て長い長いお経を唱え、もう辟易としたのだが、夜には通夜の会場へ移動して、そこでも、また長い長いお経を聞いた。もう、ええやろ!と思った。父を喪った喪失感を、もう、ええやろ!が逆転した。置き物になった父だけ会場に残してオレたち涌井家の一族は帰宅するはずだったが、父が寂しがるんじゃないかといってオレともう一人、松田のおっさんの二人で会場に残ることにした。オレはもう、あの置き物になった父に寂しいなんていう感情が無いのはわかっていたが、通夜で少しばかり酒を飲んでいたオレは飲み足りなかったから、松田のおっさんと、父の隣で飲み直したかった。オレが寂しかったのだ。

 翌日、父は火葬場へ連れていかれ、オレたちも追随した。火葬するボタンを押しながら兄は激しく泣いていたが、オレは、もう、長い長いお経の「もう、ええやろ!」が逆転しており、さらに一晩、通夜会場で隣で飲んだこともあり、別れの準備ができていた。実際のところはわからないが、あの長い長いお経が繰り返されるのは、儀式であり、あの儀式を乗り越えることで死を受け入れられる、そういう装置として成り立っているのではないかと思う。受け入れ難い死も、あの長い長いお経が繰り返されるにつれ、事実として受け止められるようになるのではないか。そのように考えると、この何年かのコロナ禍で、臨終に立ち会うことさえできなかった遺族や親友には、あの装置が発動しなかったわけであるから、事実を受け止めるのには時間がかかっただろうと思う。オレも親友の死がなんとなく宙に浮いたままだったが、先日、墓参りへ行き、仲間と献杯したことでようやく受け入れられたような気がする。

 だからお経にしろ法話にしろ、別に面白くなくても退屈であっても、それは、たいした問題ではなく、とにもかくにも、それが在るということ、それが何より大切であり、内容を覚えていようがいまいが、その場に座っている、ということそのものにこそ、意味があるんじゃないかと思う。故に、やはり、巨額の寄付によって信者が救われるというようなことは、まやかしなのではないかと思った次第でございます。

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