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私が仕事をはじめたとき

 2009年2月2日、今の仕事に就きました。局には実はその何ヶ月か前から何度か入っており、それは何故かといえば、片山ブレイカーズ&ザ・ロケンローパーティのレギュラー番組のゲストとしてお招きいただいていたからです。私はその昔、片山ブレイカーズ主催のライブイベント「惜夜歌絵巻」で司会をしており、「司会の涌井くん」として番組に出させていただいていたのです。

 その頃の私といえば、ライブイベントの司会や結婚式の二次会の司会なんかもしておりましたので、いずれは喋る仕事がしたいと思っておりまして、そんななかラジオ局に出入りさせてもらったわけですから、当時の番組のディレクターさんにその旨を伝えたところ、「実はウチの制作会社でスタッフを募集してるから来ませんか」とお誘いいただき、「最初はAD(アシスタントディレクター)で裏方の仕事をしたあとにラジオDJになった人もいるよ」という言葉が決め手となり、私は制作スタッフになったのです。もう13年前。以来、ラジオDJになることはなく、ずっと制作のお仕事に携わっています。

 13年前の2月2日は月曜日でした。週の始まりから来るのがいいだろうということでそうなったのだと記憶しています。私の所属している制作会社は当時、お昼の帯番組を担当しておりました。(ちなみに初日のゲストは浅野温子さんでした!)入社までの間にパソコンを使えるようにしておいてくれと言われ、それまで私は人差し指しか使いませんでしたから(それはそれでめちゃくちゃ速かった自負はある)これではいかんと思い『名探偵コナン』のタイピングソフトで練習を重ねました。

 事前に局に行くことがあったおかげで、ラジオの原稿も何種類かいただいており、それをDJ風に読み上げる練習なんかもしておりました。当時はいずれ喋るつもりをしていましたから。15分くらい喋ったものを録音してCD-Rに焼いてディレクターさんに渡したのも覚えています。結局それは聴いてはくれませんでしたが。

 ココン烏丸の中2階に当時あったカフェで面接があり、当時の社長とディレクターさんと話をしました。「生放送を生業にするということは、親の死に目には会えない覚悟でいてください」と言われました。父が亡くなったのは2年前の3月。金曜日で生放送の担当ではありませんでしたが、死に目には会えませんでした。私は面接に赤いジャケットを着て行ったため、常識の無い人間だとみなされ、ゲストとして接していた時とは打って変わり、厳しくなったディレクターさんにそのあたりを矯正されていきました。眼鏡は3本ほど使い物にならなくなりました。あの頃に帰りたいとは思いませんが、あの頃が無ければ、今、ありがたいことにお仕事仲間の皆さんから得られている信頼というものを得ることはできなかったであろうとも思います。ただ、決してそれは美化してはならないことだとも思います。

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