短編小説『肩に10円玉〜ネットリテラシーチェックその4〜』
ブスリ。
「あら、ごめんなさい」
どうやら思っていた通りには打てなかったらしい。打ち手のお姉さんが申し訳なさそうな顔をした。1回目の時は全く痛まなかったので、このお姉さんの態度からも察せられる通り、打ち方もしくは打ち所を間違えたのだろう。さっきからお姉さんと書いているが、もはやあのおばはんに気を遣う必要などない。
ワクチンを接種したという証明書のようなものを発行してもらい、アナフィラキシー対策のための待合スペースへ移動すると、三十路過ぎとみられる女が野球帽を被ったじじいに絡まれている。
「おい!わしの財布に入ってた10円玉がおまえの肩にひっついてしもたやないか!どうしてくれんねん!」
「ワタシかって困ってるんですわ。10円くらい、できることならすぐにお返しするんですけど、さっきあなたもご覧になったでしょう?財布から出した途端に肩にくっついてしまうんです」
「どないなっとんねん。わしの肩には全然ひっつかへんで」
「副反応みたいですね。嘘みたいな話やと思ってたんですが、まさかワタシがこんなことになるとは」
「ちょっと待てよ。ほんなら一回試してみよ」
じじいは使いふるして赤茶けた財布をズボンのポケットから取り出すと、小銭を床にぶちまけた。500円玉だけがじじいの想定以上に遠くへ転がっていったため、じじいは女の肩にくっついた10円玉どころではなくなった。
「ちょ、待てよ!」
慌ててじじいは500円玉の転がる先へと駆けていった。主人がいなくなり、小銭たちは床の上で途方に暮れているが、3枚の10円玉だけは違った。カタカタカタカタと床で踊ったかと思うと突如、宙に浮き、女のほうへ引っ張られていく。女の肩に既にくっついている10円玉も、おそらくそのようにして、じじいのもとを離れていったのだろうが、今、床の上から旅立った10円玉は、女のもとへ辿り着く前に、何か壁にぶち当たったかのように空中で一時停止したかと思うと、女のほうへ行ったり、その反対方向へ行ったり不安定な動きを繰り返している。
反対方向を見てみると、パンクバンドのTシャツを着た上背のあるおっさんの腕にも10円玉が貼り付いており、どうやら3枚の10円玉は、女とおっさんの二人に引っ張られ、どちらにも行けずに空中で逡巡しているらしかった。
そういえば冷戦の頃は、ベーリング海峡の上空50キロほどのところに巨大なボーリング球のようなものがずっと浮いていたという話を聞いたことがあるが、あれはアメリカとソ連の力が拮抗していたため、お互いに引っ張られていたのかもしれない。似たようなことが今、目の前で起こっており、似たような役割を今は核爆弾が一手に引き受けている。
「おやおや、今日は初めてですね。はいはい、ちょっと待ってくださいね」
さきほどワクチン接種を終えた者たちの行列を整理していたおじさんがやってきた。接種会場ではよくある光景らしい。3枚あるうちの1枚を攫み、「むんっ」と声を出し、引き抜こうとしたようだが、ちょうど水に浮かぶゴムボートを上から抑えつけたらゴムボートがぐるんと回転し、体が水中に持っていかれた時のようにして、10円玉を支点におじさんが一回転してしまった。
待合スペースにいるワクチン接種を終えた人たちから大きな拍手が湧き起こった。おじさんはまんざらでもない様子である。
「もう1回!」
人差し指を立てるとおじさんは再度、10円玉へ挑んだが、またしてもクルンと一回転し、10円玉にいいようにあしらわれてしまったが、接種者たちからは先ほどよりも大きな拍手が湧き起こった。
「吉住さん、元気やな。またやってるよ」
近くにいた係の人間が呆れたとばかりに一人ごちていた。
「よくあることなんですか」
「ああ、いえね。三日前くらいでしたかね。今と同じようなことが起こりましてね。副反応がきつい人が二人以上近くにいると、割と起こるんですけど、吉住さんは初めて見たものだから、なんとかしないといけないと思ったみたいで。さっきと同じように10円玉を攫み取ろうとしたら回転しちゃって」
「さっきと同じですね」
「そう。同じように拍手が起こったわけよ。吉住さん、50年生きてきて人から拍手もらったことなんて一度もなかったとか言って。えらい感激したみたいで、それから同じことが起こったら、ああやってるんです」
「じゃあ、あの状態を解決してくれるわけではないんですね」
「解決しようと思ったら、あの二人を離せばいいだけやから、別に難しいことしなくてええねん。むしろ吉住さんとしては、解決してほしくないわけよ。二日前やったかな。副反応のひどい人がいなかったから、吉住さん、めっちゃ不機嫌やったもん」
「そうですか。確かにコロナで金儲けしてる人もいますもんね」
15分経ったので待合スペースを後にする。後ろからはまた拍手が聞こえる。何回やるつもりなんだろう。出口へ向かう途中、場にそぐわない煌びやかな貴族のようなコーディネートのご婦人がいて、どこの富豪がわざわざこんな集団接種に来てるのかと思っていたら、肩のあたりに何枚か500円玉がくっついていた。金持ちは副反応の硬貨も違うのだ。十歩後ろにさっきのじじいが尾けていた。危ない目をしていたが、関わらないことにした。拍手の音がまだ聞こえる。
#令和3年10月16日 #コラム #エッセイ
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