心を繋ぐものでなければ
昔から「この人めちゃくちゃ気配りできる人やな」ってほどではなかったにしろ、少なくとも私よりは気配りができる人だったはずの先輩の「いくらなんでもそれは無い」というエピソードを聞きまして、どうしてそんなことになってしまったのだろうか、と何となく考えておりました。
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帰りに近所のリカーマウンテンへ寄り、相変わらず「ひょっとして今日はあるかな」と思いながら、ウイスキーのコーナーで吉井和哉さんのウイスキーを探すのですが、発売日に無かったものが今日あるわけがないですよね。「訳あり」の棚も念のためチェックしてみた。こんなとこにいるはずもないのに。まさか吉井和哉を探しながら山崎まさよしの気分になるとは。
結局いつもの通り、宝焼酎ハイボールに落ち着きまして、本日はラムネ味とレモン味1本ずつ購入。レジで精算。リカマンカードのポイントにより、やや値引きされて200円ジャストでした。小銭がなかったので五千円札を一枚出しますと、店員が「五千円でよろしかったですか」と尋ねてきました。
私はさほど頭が良いほうではないので考えました。「まことくんは200円の商品を購入するのに五千円札を1枚出しました。店員さんに『五千円でよろしいですか』と言われました。さて、五千円でよろしくない可能性はあるでしょうか?」
例えば。
210円だったとしましょう。
すると、ひょっとすると私は小銭を減らすために十円玉を出すかもしれません。
しかし、200円の場合、小銭を出す可能性とは。。
「あ〜、100円玉2枚ありますわ!」
五千円札が必要なくなります。
「あ〜、500円出しますわ!」
五千円札が必要なくなります。
いろんな可能性を今まで考えましたが、200円の商品を購入するのに五千円札を出した私が、それ以上何かを出す可能性はゼロです。
私はさほど頭が良くないので、いろんな可能性を考えてみましたが、普通は「もう選択肢は無い」とすぐに解ると思います。では、それなのに、なぜ、店員さんは「五千円でよろしいですか」と聞いたのか?といえば、「そうやって確認しておけば間違いない」と思っているからです。個別の案件に対して、一件ずつ丁寧に対処することが、めんどくさいんです。「そんなことまでやってられるかい!」っていう店員さんの気持ちもわかります。給料がいくらだとか、ブラックなのかどうなのかとか、そういうのはわかりませんが、五千円札を出した私に対して「あ、この場合はもう小銭は出さないな」と判断して、「では五千円お預かりします」と、対応を変えなくていいと考えたかどうかわかりません。いや、おそらく、思考停止しているのでしょう。しつこいようですが、この店員さんのことを非難しているわけではありません。個別に対応するほどのやる気も情熱もないのは、その人本人が悪いだけではないはずです。疲れているだけかもしれません。
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このレジでのやり取りのあとに、冒頭に書いた先輩のことがなんとなく思い浮かびまして、やっぱり、冷めていたり、疲れていたり、そのどちらともだったりするんではないかな、ということを思いまして、例えば、女性とのお付き合いにしても、「この人のことが好きで好きでたまらん!」という場合には、好かれるために一生懸命になるのに、いざ、お付き合いすることになった途端に急激にその情熱が失せてテキトーになるみたいなこともあるのでしょうし、(なんとなく他人事のように書いてしまった自分が逆に恥ずかしい)男の優しさは9割9分下心なんてのも、「おいおい、それを言ってしまったら身も蓋も無いじゃねえか」って気もするのですが、当たらずとも遠からずといいますか、「だからこその情熱」ってのが失せてしまうと途端に思考停止してしまったりもするわけで、そうなると、「五千円でよろしいですか状態」に陥るのはあっという間です。
仕事についても、ある程度、任されるようになると「どの程度やるか」が自分次第だったりするから、どこかではっきりと線を引いておかないと、自分でもびっくりするくらいにズルズルズルズル手抜きに走ってしまいます。手抜きしてるくせにそれを正当化しようとしたりする。「給料が安い」とか「これはディレクターの仕事じゃない」とか、何かしら言い訳を用意しやすかったりするのも問題なんですが。「手抜き」は「合理的」と言い換えることもできちゃう。
合理的な先輩に仕事を教わるデキのいい後輩はデキがいい分、とことん合理的を追い求めてしまいます。そうすると、個別の案件を考えるのは無駄であるという判断から、「五千円でよろしいですか」と聞いてしまうようになる。
合理的かもしれないけれど、そこには一つも「心」が無いのが問題だと思う。無いくらいなら「下心」のほうがあるだけ幾分マシではないか。緊急事態宣言下、対面で会って喋ることができないなかで、リモート対応になることが増え、それって直接会って話すよりも味気ないものだよな〜とも思ったりするんですが、いっぽうで、今日はリモートだからこそ繋がった、なんとも心の温まる優しい気持ちになれるお話を聞いたりもしました。
合理化によって心が削られてしまうのは悲しいことです。合理化は心を繋ぐものでなければ。
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