三度目が大事、三度目には大事
令和3年4月22日の日記
涌井慎です。趣味は新聞各紙のコラムを読むことです。ここでいう「コラム」とは朝日新聞における「天声人語」のポジションのコラムです。
本日4月22日のコラムには、いろんな諺(ことわざ)のことが書かれていました。毎日新聞「余録」には「三度目が大事」「三度目には大事」の二つの比較がありました。前者は「大事(だいじ)」で後者は「大事(おおごと)」。前者は「三度目は失敗が許されない」後者は「災難も三度目は重大事になる」の意と書いてあります。一度目も二度目も大事だったし、このままでは近い将来に訪れるであろう四度目も五度目も大事なんだと思います。四度目以降は、新聞のコラムといえども、うまいこと諺を使うこともできなくなるのではないでしょうか。諺でなくてもよいのなら、負けない事、投げ出さない事、逃げ出さない事、信じ抜く事がダメになりそうな時は大事らしいけど、何に負けないのか、何を投げ出さないのか、何から逃げ出さないのか、そして何より、いったい何を信じ抜けばいいのか。
日経新聞の「春秋」には「風が吹けば桶屋がもうかる」がありました。この諺は私、すごく好きでして、なぜかといえば、自分の意志と世の中とが繋がっている気がするのです。風が吹けば桶屋がもうかるのなら、私が思えば世界が変わるかもしれません。ただ、この諺の由来を調べてみると、風が吹けば土ほこりが立ってそれが目に入って盲が増えて、、、みたいな説明が書いてあり、ラジオでは紹介しにくかったりします。「春秋」では巣ごもりの影響で小型船舶免許の合格者が急増したことに繋げていました。
福井新聞の「越山若水」は「隣の芝生は青い」を取り上げていました。これは古代ローマの詩の一節が由来らしい。そう言われてみると、どうも「芝生」は日本由来っぽくない気がします。日本には大変日本らしい「他人の飯は白い」という諺がありますが、これに関しては「いやいや、うちの飯も白い」と言いたくなってしまいます。あまり上手くない気がしますね。白い飯なら美味いはずですが。これとは反対にドイツ語には他人の不幸を喜ぶ恥知らずを指す「シャーデンフロイデ」という言葉があります。『週刊文春』なんてシャーデンフロイデがあればこそ、成り立つ読み物のように思います。そういえば日本でも人の不幸は蜜の味がします。
大阪日日新聞「潮騒」と山陰中央新報「明窓」に出てきたのは「二度あることは三度ある」。広辞苑によると「二度あったことは必ずもう一度繰り返されるものである。物事には反復する傾向があることのたとえ」とあるそうです。三度目の緊急事態宣言発令についてであることは言わずもがな。いや、書かずもがなかしら。余談ですが、私の体感では、この場合、書いてるけど「言わずもがな」でよいかと思います。しかし、ラジオ番組のエンディングでパーソナリティが「またお目にかかりましょう」と言うと違和感があります。「お耳にかかりましょう」なんてラジオならではの言葉であり、本来なら妙な言い回しなんですが、確かにラジオでは「お目に」はかかれませんから、「お目」を「お耳」に変えたら上手い具合にフィットした、というところでしょうか。これが不思議と「言わずもがな」は文字媒体でも違和感がない気がします。「書かずもがな」としているほうが、「その用法はおかしい」となりそうな気がします。しかし、それは私が非常にラジオに近い人間であるから、「お目」を「お耳」に変えても違和感がないだけで、普通は「お耳にかかるて何やねんアホか」となるのかもしれないし、文字媒体で仕事している人は実は「書かずもがな」に共感しているかもしれません。どっちでもいいんですけど、ラジオに携わっているなら「お目」と「お耳」の違いには敏感でありたいし、書く仕事をしている人には「言わずもがな」か「書かずもがな」かで悩んでほしい気はします。そのうえで、お互いが大事にしているポイントについて、「そんなもん、どっちでもええやないけ、われー」という態度はとらないようにしたいのですが、私の体感では、割と、書く仕事をする側の人はラジオの側に土足で踏み込んで、平気で書く仕事のルールを押し付けがちです。ああいうのを傲慢というのでしょう。ラジオの品質にかかわる大問題ですので、せめて靴を脱いで上履きに履き替えてからラジオをやってもらいたいものです。
ちゃんとそれができる人とできない人がいて、私は運良くそれができる方と一緒に番組を作れております。
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