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短編小説『ワクチン接種2回目〜ネットリテラシーチェック3〜』

K大病院は3階の待合スペースがワクチンの接種会場になっている。2回目の接種なので澤井にとっては「勝手知ったる」といったところであるが、その待合スペースが騒然としている。アベノマスクよりも小ぶりで鼻を隠せていないマスクをした白髪のじじいが打ち手の女を恫喝していた。

「せやからケツに打ったら効くって聞いたさかいにケツに打てって言うてるやんけ!ごちゃごちゃ言わんと打ったらええやんけ!」

「ですから、何度も申し上げております通り、臀部への接種を希望される方は事前のご予約が必要でして」

「そんなシステム知らんやんけ!これでもしわしが腕に打ったのにコロナになったらケツに打たさへんかったおまえのせいやからな!」

「ですから、何度も申し上げております通り、臀部への接種を希望される方は事前のご予約が必要でして」

埒があかないとはこのことだ。白髪のじじいの小ぶりのマスクは自身の飛沫でびしょ濡れである。後ろに並んでいる我々も辟易としているのであるが、まず、とにかく関わり合いになりたくない。そして、飛沫が気になる。じじいのもそうだが、じじいに何か指摘するためにはこちらもそれなりに飛ばさねばならない。正義を振りかざしたが故に飛沫を撒き散らすことになっては本末転倒である。己の臆病を肯定するための怠惰ならいくらでも許容する。幸いワクチンの打ち手は、いま、じじいに絡まれている女だけではない。他に3人の打ち手がおり、彼女たちは皆、順調にヒットさせていた。

「お次の方、どうぞ」

澤井はじじいが恫喝している女の奥にスタンバイしている女のほうへ促された。

「ですから、何度も申し上げております通り、臀部への接種を希望される方は事前のご予約が必要でして」

恫喝されている女の横を通り過ぎたとき、また同じセリフが聞こえてきた。遠目では二十代とみられた女は、もう少し年を重ねているようにも見えた。

「はい、それじゃあ、確認しますね。澤井慎次郎さん、二回目の接種ですね」

手前の恫喝されている女に対してあまりにも無関心なので自分のことは棚にあげて澤井はこの打ち手の女に対して少し苛立ちを覚えた。

「あの、あっちの人、だいじょうぶなんですかね」

「え。ああ、高原さんですか。だいじょうぶですだいじょうぶです」

「いや、でも、ものすごい剣幕で怒ってるし、それにあの人、さっきから同じことしか言ってませんよ」

「はい。あれでだいじょうぶなんです。ああいう危険人物は高原さんが相手することになってるんですよ」

「いや、でもランダムだから誰がどこに行くかはわからないじゃないですか」

「いえいえ、あれだけ危ないおじいちゃんは、ここにきて急に危なくなるわけではありません。ここにくるまでにも危険な言動があるわけです。ですから高原さんのところへ促したんです。これも今流行りのナッジ理論ですよ」

「しかし、あんな受け答えじゃあ、火に油を注ぐだけではありませんか」

「いえいえ、だいじょうぶです。あの受け答えを百回続けてなお、相手が改心しなかったら地獄を見るのはあのおじいちゃんっていうことだけです。さっ、余計なことはいいですから、澤井さん、左に打ちましょうか?右に打ちましょうか?」

百回同じ受け答えをしたら何が変わるんだろうか。気になるが、今は何回目なんだろうか。百回になるまでここにいたらオレもあのじじい並みに迷惑だろうか。

「あら、澤井さん、失礼しました。澤井さんは臀部ワクチンを予約されていますわね。こちらの手違いでした。申し訳ありません。ちょうど空いてるみたいですから、すぐにあちらの個室へお進みください」

「いやいや、私はそんな予約した覚えはありませんが。何かの間違いではありませんか」

「いいえ、そんなことはございません。澤井さん、ちゃんと『臀部接種を希望する』の項目に◯印を付けてらっしゃいます」

しまった。そういえば、何十と並ぶ質問項目が面倒で途中から全部◯をしてしまったんだ。

「別にいいんでここで打ってもらえませんかね」

「そうはいきません。あちらのおじいちゃんが臀部に打てないのと同じで、澤井さんも腕に打つことはできません。あちらの個室へどうぞ」

「いや、しかしね」

「そうはいきません。あちらのおじいちゃんが臀部に打てないのと同じで、澤井さんも腕に打つことはできません。あちらの個室へどうぞ」

もしやこの女も同じセリフを百回言わせたらオレが地獄を見ることになるのだろうか。ぞっとした澤井は慌てて個室へ向かった。

入室するとインテリジェンス漂う頭髪の著しく後退した澤井と同じ四十代と見られる白衣のおっさんが微笑みかけてきた。

「澤井さんですね。お待ち申し上げておりました。さっそくですが、ズボンとパンツを脱いでケツを私のほうに突き出していただけますか」

「あの」

「はい。急いでますので手短にお願いします」

「いや、すみません。実はさっきまでお尻に打つことを失念しておりましてね。これはお尻のどのあたりに打つものなんでしょうか」

「わからない人だな。お尻といえば肛門じゃ有りませんか」

「え。こ、こ、こ、肛門に打つんですか」

「そうです。打つというか、挿すというほうがよいかもしれませんね」

「えーと。そうするとよく効くとさっき表でおじいさんが騒いでましたが」

「まぁ、そうですね。ケツに挿すと体全体に染み渡るんですよ。さ、もういいですかね。そっちの柱に手を置いて、ぐぐぐっとこちらにケツを突き出してください」

澤井はこの短い間に四十余年、大事にし続けてきた二、三のことを諦め、露わにしたケツを突き出した。

「はい、けっこうです。お疲れ様でした」

「え?もう、打ったんですか」

「はい、挿しました。澤井さんの入口は挿しこみやすかったです」

「すみません、そこは僕の出口です」

「おー、確かにそうですね。打つと挿す、出口と入口、気にするところは人によって違うもんですね。うふふふふふ」

おっさんの笑顔は悪いものではなかった。個室から外に出ると、もう恫喝する声は止んでいた。じじいが横たわっていた。

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