鳥の種類くらいわかりたかった信号待ち
令和3年4月7日の日記
近頃、本の文字が見えにくかったり、あれ?ひょっとして目がかなり悪くなってるのかしら?と感じることが多く、実際先日の健康診断でもメガネを掛けて0.2だったので、そうなるともうメガネって何だったっけ?っていうことになりかねないわけでして。1死1塁で送りバント決めたけど2死2塁でバッターはピッチャーかい!っていう感じ?
メガネを替えるか、眼科へ行くか、どちらかだと思うんですが、その前に、やれることはやってみよう、というわけで、今まで信号待ちのたんびにスマートフォンでたいして誰からのリアクションもないTwitterやら Facebookやらをチェックしていたあの不毛なやつをやめて、空を眺めることにしたんです。遠い空を眺めると目に良いと何かに書いてあったもので。その情報も近いスマホでチェックしていたんですけれど。「目の保養」って、昔から男性にとっては、例えば巨乳だとか美脚だとか、そういうものだったりしたわけですけど、もう、なんか、そういうことは言うのも書くのもダメな雰囲気なわけでして、しかし、あんまりダメダメ言ってしまったら、プラスチック全廃することで死活問題になる業界があるのと同じで、仕事がなくなる人だっているってことを、その点も、ちゃんと踏まえたうえで、バランスとりながら時代を変えていかないといけませんよね。
「目の保養」ということでいえば、今日の青空なんて、すごくよかったわけです。室町四条で信号待ちしているとき、これは朝の話なんですけど、空を見上げていると、種類とかわからないんですけど、鳥がけっこう飛んでいるんですよね。鴨川でハンバーガーとか食べてるとトンビが急降下してきて危なかったりするんですけど、街中だって、あの鳥たちの種類によってはけっこう危ないんじゃないのかな、なんて思いながら、鳥の行方を気にしていると、別の鳥と合流して、ちょっといちゃいちゃしながらオフィス街へ消えていったりするんですよね。昼間からいやらしい。
私たちは、見えるものしか見ません。見たくないものからは目をそむけようとするし、見たいものが近くにあっても気づかなかったりもします。ありのままを見ないということもあります。自分のフィルターを通してしか物事を捉えることはできないわけですが、意外とそのフィルターが汚れていることに気づかない場合が多いので、たまには綺麗にしてあげないといけないなー、と鳥たちの行方を見守りながら考えておりました。
昔、課長時代か部長時代か忘れましたが島耕作が、「環境の悪化について考えられるようになったのは人々が豊かになったからだ」とかいう、一休さんにも出てこないようなふざけた頓知を披露していたことがありまして、何を言うとるんや、と思ったものですが、今日、青空や鳥たちの行方を信号待ちの時間を苦にせず眺め続けられたのは目が悪くなったからだな、と思ったときに、あの日の島耕作が脳裏に浮かんだのでした。
三条会商店街を出たところ、千本通りと三条通りが交差するうえに、斜めの後院通りが千本もしくは三条に吸収される複雑な交差点での信号待ち、二条駅へと続く高架の上を走る新快速の奥が、夕陽になる前のグラデーションを形成しており、あのグラデーションが、はっきり夕焼け色になれば、雰囲気としてはグラデュテーションになるな、なんていう言葉遊びを脳内で回しながら、結局そのグラデーションをおさえておきたい、とスマホで写真を撮るあたり、なかなか、この文明の利器を手放すことはできないものだなー、と感じたのです。
一つ発見がありました。スマホがあれば信号待ちなんて苦じゃないって思っていましたが、遠い空を眺める時間さえあれば、スマホなんて要らないです。思っている以上に、スマホなんて、たいして必要じゃないんだと思います。楽な方、楽な方へ逃げたいから、そこにスマホがあるんですよね。私たちは、もう少し、しんどい方、しんどい方へ、流れていってもいいのかもしれません。