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日脚伸ぶ

 今月のネット句会のお題が「日脚伸ぶ」に決まり、私は千鳥ノブなら知っているが日脚伸ぶとはなんのことかわからず、これまでのネット句会は私にもわかるくらいわかりやすいお題が出されていたのに、いきなりレベルアップしとるやないかい、などと思っていたら、たまたま数日前の読売新聞1面コラム『編集手帳』に「日脚伸ぶ」のことが載っていた。

 いわく、俳人の草間時彦は「1月の季語で好きなのは『日脚伸ぶ』だ」と書いているらしい。冬至が過ぎ、少しずつ日が長くなっていく様子を表す言葉ということだ。
 1月の日の出から日の入りまでの時間は、平均して1日1分ほどしか延びていかないのだが、そのかすかに漂ってくる春の気配を、風情として感じ取った過去の俳人について、草間は「詩的感覚は鋭いと思う」と評している。

 私は二十四節気を三つに分けた七十二候が好きなのだが、あれも先人の自然に対する感覚の鋭さが言葉になっていると思う。
 いまは七十二候では「款冬華(ふきのはなさく)」の候で、そのままフキの花が咲く頃という意味。正直なところ、いまの私たちの暮らしにおいて、「あ、フキの花が咲き始めてる!季節が移ろってるんだね」などとしみじみするタイミングなどない。
 スマートフォンがあればなんでもできる世の中になったが、失われたものは思いのほか、大きくて多いのだと思う。

 その「失われたもの」を失われたままにしたくない人たちが、例えば詩を書き、俳句をひねり、短歌を詠むのだと思う。小説や随筆しかり。要らないと思っている人には全く必要のないものであるが、全く必要ないと思っている人だらけの世の中になってしまったら、果たしてそんな世の中は理想郷たりえるのだろうか。

 1日1分だけ延びる日の出から日の入りまでの時間にそこはかとない春の訪れを感じ、そのことを歌にする、というような営みを大切にする我々でなければ、進歩も進化もなかったのではあるまいか。

 例えば一日中、部屋に閉じこもり、X(旧ツイッター)の「いいね」だとか「リポスト」だとかの数ばかり気にしてフォロワーの数で人格を判断し、生身の人間のことはステレオタイプでしか判断しないような人間が新しい価値を生み出せるだろうか。

 失われつつあるものが失われてしまわぬように私はあがき続けたい。両耳をワイヤレスイヤホンで塞ぎ、スマホばかり見て「人間」や「自然」を見ようとせず「数字」にしか興味を示さない人にどれだけ嘲笑されたとしても、私はもがき続けたい。

 ネット句会の締切が迫っている。今日よりも日の出から日の入りまでの時間が4分ほど延びるその日までに、なんとか自分の納得できる俳句をひねり出したいと思っている。

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