見出し画像

7月31日の新聞1面のコラムたち

 涌井慎です。趣味は新聞1面のコラムを読むことです。読売新聞『編集手帳』は高校野球のお話。3500チームが挑んだ地方大会は代表が出そろいました。※昨日の時点ではまだ出そろってはいませんでした。祇園祭の山鉾巡行、五山送り火、今年の行事には「3年ぶりに」という枕詞が付きがちです。これはどういうことかといえば、今年の3年生が1年の頃からずっとコロナ禍であったということです。対戦相手以外にも厄介な敵が居続けた3年です。試合結果を伝えた記事に「野球ができて感謝します」という選手のコメントが多いのも、無理からぬことでしょう。そのうえ球児たちは、熱中症とも戦わねばなりません。感染症予防のためにマスクを着けろといわれ、熱中症予防のためにマスクを外せといわれ、最近はマスクは外してもいいよと言われていますけど、感染が拡大すれば「それみたことかマスクをちゃんとしないからだ」としたり顔で大人が嘲笑う。水島新司ちゃんの野球漫画の金字塔『ドカベン』を読んでもマスクをしている選手は一人もいません。土佐丸高校が眼帯を着けているくらいです。コロナ禍を明訓ナインはどんな風に乗り切るでしょう。岩鬼も殿馬も里中も山田もコロナには勝てない。球児の皆さん、私はドラマを求めません。とにかく無事でいてください。

 高校野球もどうしてこんな暑い盛りに大会を開催せねばならないのでしょう。学校の長期休暇が夏休みなんだから仕方ないのかもしれませんが、少しくらい高野連ちゃんは、問題意識を持っておられるのかしら。朝日新聞『天声人語』には、先日、旧統一協会と政府与党の議員の皆さんとの関係性について「何が問題かよく分からない」と発言されていた偉い人のことが書いてありました。本当にあの人は何が問題かよく分かっていないのでしょうか。もし、本当に何が問題なのかよく分かっていないのであれば、総務会長としての資質が問われるでしょうし、何が問題なのか、本当はよく分かっているのに開き直っておられるならば、やはり資質が問われるでしょう。偉い人が強権を振り翳して好き放題するのを見るのに飽きました。政治家の偉い先生方は、いつからあんな風になってしまったのでしょう。政治家の先生たちの言う「国民」というのは、いつから「支持者」のことを意味するようになったのでしょう。何年か前に街頭演説中に「こんな人たちに負けるわけにはいかない」とおっしゃっていた方がおられました。あの方も「国民」から「こんな人たち」を排除しておられたようです。その方がどなたか、ということには触れずにおきます。

 京都新聞『凡語』には同志社を創立した新島襄ちゃんの逸話が載っておりました。新島ちゃんは1874年、アメリカのバーモント州のグレイス教会で行われた宣教師派遣団体の年次大会で「日本にキリスト教主義の学校を作りたい」と志を語り、寄付を呼びかけたそうです。新島ちゃんの訴えは聴衆の胸を打ち、なんと、5千ドルが集まりました。最後に2ドルを手渡したのは貧しい農民。帰りの汽車賃だったそうです。不安をあおって献金の強要を行なってきた教団と、新島ちゃんの逸話との隔たりに泣けてきます。元首相銃撃事件の容疑者は、宗教団体への母親の巨額献金によって家族の生活が壊れた恨みを募らせたとされています。貧しい農民の2ドルも、母親の巨額献金も「寄付」です。「寄付」って何なんでしょうかね。

 「寄付」の意味は、それでもなんとなくわかっているつもりですが、毎日新聞『余録』に書いてあった「Web3.0」のことは全く知りませんでした。『余録』を引用すると、1990年代に商業化されたネットは、ホームページの閲覧が中心だったウェブ1.0から、利用者がソーシャルメディアで情報を発信するウェブ2.0へと進化しました。これにちなんで、次世代のネットの理想像を表す概念として「3.0」が提唱されているんだそうです。わかったようなわからないような。なんにせよ、3.0は未来の話ということかしら。偉い人および金持ちが恣意的に解釈を捻じ曲げて自分たちの都合のいいものに仕立て上げてしまわないように気をつけなければなりません。ネットの世界でくらい、私も「民」から排除されたくありませんから。

 排除といえば、全国学力テストで数学や理科の正答率が芳しくなく、「理系離れ」が進んでいると産経新聞『産経抄』に書いていました。進路を考える際、文系と理系に道を分けること自体、もうやめてしまえばいいのに、これまた高校野球の夏開催をやめられないのと同じように、なかなか一筋縄ではいかない問題なのでしょうね。私は高校時代、文系に進みまして、3年のときには物理も化学も習わず、数学も数2Bまでで終わりましたが、あれから二十数年経った今、あの時、習うのをやめた理系の知識の欠乏に泣いております。宇宙天文地学気象あらゆる学問に必要となる基礎知識が欠けていることが、いかに人生の選択肢を狭めることか、痛感しております。自分が要らないと判断したものは学ぶ必要はないというのは一理ありますが、しかし、それを判断するのに高校生は若すぎます。なんでこんなこと勉強せなあかんねんと文句を垂れながらでも、勉強しておいたほうがいいのではないかと四十を過ぎてから後悔しても遅いのです。ぴえん。

 考えてみれば、文系の極みといえる作家のなかにも森鷗外ちゃん小松左京ちゃん星新一ちゃんほか、いくらでも理系の知識を活かした作家ちゃんはいるわけです。日経新聞『春秋』には松本清張ちゃんのことが書いてありましたが、清張ちゃんはどうだったんでしょうか。いやいや、歴史に名を残す文豪を相手にして文系だったか理系だったかとか問うこと自体がアホらしいじゃないですか!8月4日で没後30年だそうです。清張ちゃんは、編集者にしつこく感想を求める人で、ほめればいいという態度が絶対に通用しなかったそうです。おお怖い怖い。ミュージシャンのライブ後の挨拶で感想を求められた時の緊張感を思い出しましたが、そんなものの比ではなかったことでしょうね。

#令和4年7月31日  #新聞 #コラム #新聞コラム
#note日記  #日記 #毎日更新 #毎日note
#エッセイ  #読売新聞 #京都新聞 #朝日新聞
#産経新聞  #毎日新聞 #日経新聞
#ジャミロワクイ  #ジャミロ涌井 #涌井慎
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?