こんな時代って、いきなり来るんだ
昨日の京都新聞の文化面に作家の星野博美さんの言葉が載っていました。星野さんは執筆中に新型コロナウイルス感染が拡大して、国家が個人の自由を制約する「空気」を実感しました。特定の営みに「不要不急」のレッテルを貼る風潮が、戦争に資する「時局産業」以外を切り捨てた戦時中と重なりました。
「自分の権利があからさまに侵害される、こんな時代って、いきなり来るんだと驚いた」
私の父親はコロナ禍になる少し前に亡くなりましたが、この時代を果たして生きれただろうかと思うことがあります。平気で路上喫煙するような人でしたから、マスク着用やワクチン接種を強要する世の中の空気のなかを生き抜けたのだろうかと不安になることがあります。コロナ禍の少し前に逝った人に対して同じような思いを抱いたことのある人は多いのではないかしら。あの傍若無人唯我独尊我儘の極みのような人間はコロナ禍が死ぬほど辛かったに違いないといった風に故人を懐かしみ、そう考えるとオレたちってちゃんと時代に寄り添って生きてて偉いよな〜という非常におかしな腑の落ち方、溜飲の下げ方?をしている気がします。そうしないと、なんとも納得できないことが多いです。偉い人の言う通りにしないとなんとも仕方ない風潮は、我々にはどうしようもできなくはないけれども抗えば変人扱いされ、あいつには近寄るなと陰口を叩かれるのです。
いやいや、別にですね。マスクは着けますし、ワクチンは打ちますし、濃厚接触者になったら外出しませんし、PCR検査受けますし、しかし、そういうのって、誰かに強制されるものではなく、自らの意志でやりたいし、自らやりたくなければやらなくていい自由って必要な気がするんです。国が人の権利をあからさまに侵害するのを見たからなのか、わかりませんが、本来侵害すべきではないはずのものをコロナを免罪符にして当たり前のように侵害しまくる空気には違和感を覚えます。いっぽうで、私と同じような立場にいる人のなかにも、それを当然と捉える人もいます。みんな違ってみんないいのかはわかりませんが、お互いにお互いのことをギリギリのところまでは認め合い尊重し合うべきだと思います。ただ、みんな「ギリギリ」のラインも違うから厄介なんですよね。
あなたは睡眠時間5時間でよくても私は8時間欲しいんです。あなたの常識を私に当てはめないでください。っていうのと同じです。
降水量が500ミリのA県は被害がさほどでもなかったのに300ミリのB県は甚大な被害に見舞われたということもよくあることです。北海道と東京で同じ豪雪だった場合・・・はい、そういうことです。みんな「ギリギリ」のラインが違うから難しいのです。そこを理解し合うのってなかなか至難の業なのです。よくあるでしょう、「こんなこともできないの?」っていうパワハラ。私はあれを言う人のことは信用してはいけないと思っています。人にはやさしくならないと。自分に厳しく人に甘いくらいがちょうどよいのですが、どういうわけか、自分に甘く人に厳しい人が多い。自分に甘くていいから人にも甘くすればいいのに。しかし、いっぽうで、自分に厳しくて人にも厳しい人は危ないんです。自分のことを棚にあげられないがゆえに八方塞がりになってしまう、ということがあります。いろいろ考えてみるに、自分に甘く人に厳しいことをお互い様だと思える緩い空気が大事なのでしょう。人のことも自分のこともむやみに追い詰めてはいけません。
大谷翔平がオレは打って二桁ホームラン、投げて二桁勝利してるんだから、おまえたちもそのくらい頑張れよとか言い出したら頭イカれたんか翔平と思うわけでして。
自分こそが正しいという傲慢さから抜け出せないから、人が大事にしていることを興味ないと一蹴したり、そんなことどうでもいいじゃないですか、考えすぎですよ、とフォローのつもりで相手を地獄に落としたりする。自分も気をつけなければいけないと思う反面、気をつけることによって人生を窮屈にしている自分にも気づいています。私はどうすればいいのだろうと考えれば考えるほど死にたくなるけど、死ぬほどの覚悟もない。延々そのことを考え考え、ああ、そうだ。フィクションの世界で自分を死なせてみようと思ったりもしたんですが、それはそれでなかなか労力が必要でして、とりあえず、いろんなものから逃げに逃げて、ただいま宝焼酎ハイボールを呑んでおる次第なのです。
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