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思い出せない理由

現実の生活が辛くなると、自分にする質問がある。             「人生を好きな時点からやり直せるとしたら、いつからやり直しますか」    j

人生を好きな時点からやり直せるとしたら?                「仕事に邁進していた時(もっと自分の私生活を優先していたら…)」    「就職する時(もっと良く考えて会社を選んでいたら…)」         「大学受験する時(もっと良く考えて学部を選んでいたら…)」        「中学生の時(もっと自分の将来を考えていたら…)」 

自分のぱっとしない、幸せでない人生を振り返る。あの時、ああしていれば、人生は違ったかもしれない。今の私は幸せで満ち足りていたかもしれない。仕事に邁進していた時、就職する時、大学受験する時、中学生の時。それぞれで選ばなかった方の選択を行った私。その私は今は幸せに満ち溢れている人生を送っているに違いない。想像の中の私は幸せそうに笑っている。笑っている私の姿を見て、私はいま目の前にある人生の辛さを忘れる。                 

ふと私は冷静になる。                  
でも「生まれてくる時(別の家庭に生まれていれば)」、私の人生は一番変わっていたはずだ。姉の存在がなければ、私の人生は180度とは言わないけれど、だいぶ変わっていたと思う。                           自分がどんなに頑張って努力しても、変えられない家族を抱える人生ではない人生。そういった人生がどんなものなのか、私には知る術がない。

姉の存在がそれほど私の人生には大きな影響を与えていた。          私と同じ境遇で、幸せな人は少なくないだろう。

でも私は、苦しかった。どうやって姉のことを受けれ入れば良いかわからなかった。誰ものその方法を幼い私には教えてくれなかった。

結果私は姉の存在をどう扱って良いかわからず、その存在を「健全なもの」に偽装して生きてきてしまった。それが、とても苦しかった。でも、姉の存在を知られることで、他人の目に映る自分の姿が変わってしまうことが怖かった。よりにもよって中高一貫のお嬢様学校に入学してしまったから、生活レベルが高く、幸せな人生を送っているように見える友人が多かった。そんな友人たちに、「かわいそう」「不幸」そういったレッテルを貼られることが、多感な思春期の私には耐えられたなかった。

二十代になって少しは私も大人になり、友人に姉のことを打ち明けたことがある。二人の女友達。信頼できるその二人は、もちろん私にレッテルを貼るなんてことはしなかった。でも一方で、割と仲良くしている友人たちが、私の姉が本当に存在しているのか、存在していても健康じゃないんじゃないか、なんて噂をしていることを知る。だからは、その女友達二人以来、誰にも姉のことを打ち明けていない。

人生の葛藤は常にあった。姉の存在、それを受け入れられない自分、姉を取り巻く問題、生活に馴染めない姉、姉の面倒を見なくてはならない私は結婚できるのだろうか、姉と私の二人を受け入れてくれる伴侶なんて見つかるのだろうか、将来的に姉の介護は私がするのだろうか。姉に対してマイナスに思ってしまう自分は、人間として正しくないのではないか。正直、葛藤の連続だ。

親たちはこの私の葛藤にどれだけ気が付いていたんだろうか。

でも、子どもは親を選んで生まれてくるという(非科学的だけど)。
もしそうなら、私は今の両親を選んで生まれてきた訳で。
なぜ私はこういった家族になる両親を選んで生まれてきたんだろう。
その理由はなんだったのだろう。      

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