【短編】ネモフィラ
目の前に、ネモフィラの花の群生が広がっている。
ネモフィラはとても好きな花だ。1輪だととても頼りなく見えるのに、このように群生になると、人の目を引き付ける圧倒的な青さを誇る。
自宅の庭でも再現してみたいけど、無理だろうな。
そんなことを考えていると、後ろから敦史が声をかけてきた。
「これで許してくれる?」
「まだまだ足りないよ。こんなんじゃ。」
私の言葉に、彼は困ったように笑う。その笑みに絆されそうになる自分に、心の中で活を入れる。簡単に許しちゃダメ。
彼は数日前まで、他の人と浮気をしていた。
でも、彼女とうまくいかなくなって別れ、そして私のところに戻ってきた。
こんなこと、もう彼と付き合って何度繰り返したことか。
始めは激しく彼を詰り、大粒の涙を流して彼を引き留めたり、とにかく思いつく限りのことをした。でも何度も同じことを繰り返していると、感覚は麻痺してくるものだ。彼は最後には私の元に戻ってくるのだから、と変に達観してしまった。
彼は浮気相手と別れると、必ず私の元に戻ってくる。そして、私が望むことを私が許すと言うまでしてくれる。
今は、私の『許す』という言葉を、彼は待っている状態なのだ。
今日はこの後、水族館に行って、それからホテルで豪勢なディナーを食べると、決めていた。
でも、今は目の前のネモフィラの群生を、目に焼き付けておきたかった。
朝、早い時間に、この国営公園に着くようにしたので、連休中だから人は多いものの、身動きが取れないほどでも、人込みに酔うほどでもない。
私から遠く離れたところで、中学生か高校生とみられるカップルが、手を繋いでいる。ネモフィラやお互いに対し、キラキラとした目を向けているのは、微笑ましかった。
私にも、あんな恋をしていた時期があったはずなのに。
「瑠梨。」
私は浮かべていた笑みをそのまま声の主に向けた。私の名を呼んだ彼の笑みは強張っている。
「あのさ。今日は一日付き合うからさ。それが終わったら。」
私は、彼の言葉の続きを待った。
「もう、俺、瑠梨には会わないから。」
「・・なんで?」
私が問いかけると、彼はさらに顔を歪める。
「瑠梨だって、分かってるだろ?俺たち、もうとっくに終わってるって。」
「分からないよ。敦史が戻ってくる場所は私のところでしょ?」
「それがおかしいんだって。なんで、何度も浮気する俺のことを待ってるんだよ?」
「私に申し訳ないから、もう浮気をやめようという気にはならないの?」
私からの問いに、彼は口をハクハクさせた後、黙り込んだ。
実際は分かってる。浮気をやめようと思っていたら、とっくにやめてる。
それでも、いつかはやめてくれるんじゃないかと期待した。
彼が私のところに戻ってくるのは、私でなければダメだから。
そう思って、この関係を繋ぎ止めようとしていた。
ようやく、彼の方に、この関係を続けてはいけないという気持ちが湧いたらしい。
「ごめん。もう、俺のことなんて待たなくていいから。」
「私が好きで待っていると言っても?」
「そんなはずない。」
「?」
「俺が瑠梨のところに戻ってくる時、お前はいつも泣きそうな顔をしてる。」
「!」
「もう、そんな顔して待たせちゃいけないから。」
苦しそうに言う彼のことを見ていたら、涙が抑えられなかった。
なぜ、私を苦しめている彼の方が、苦しそうな顔をしているんだろう。
私は彼の前で、化粧が落ちるのも忘れて泣いた。
こんなに泣いたのは、最初に彼の浮気が分かった時以来だ。
彼は最初、躊躇っていたけれど、泣いている私を抱きしめて、慰めてくれた。
浮気をするひどい人だけど、私には優しい人だった。
浮気さえしないなら、私にとってずっと一緒にいたい人だったのに。
「最後に、俺を許してくれる?」
「・・許す。でも、今日一日は私を甘やかしてほしい。」
「わかった。今までにないくらい楽しい日にするから。」
彼は、私の耳元でそう宣言して、私の背中に回した腕に力を込めた。
終